220話 俺×既知=知らないはずです。
「……いや」
真守は思わず額を押さえた。
夕暮れの駅前。人通りは多い。学校帰りの学生もいれば、仕事帰りの会社員もいる。
騒がしいはずだった。けれど今だけは妙に静かに感じる。
目の前にいる少女のせいだった。
白彼岸 天音。
さっき名乗ったばかりのその名前を頭の中で反芻する。だが、何度考えても思い出せない。
同じ中学だったらしい、自分を探していたらしい、そして今、まるで昔からの知り合いみたいな顔でこちらを見ている。
「ほんとに誰なんだよ」
率直に聞く。
白彼岸は少しだけ首を傾げた。姫カットの黒髪がさらりと揺れる。
「白彼岸だよぉ」
「そうじゃなくて」
「天音ぇ」
「名前じゃねぇよ」
「うーん?」
白彼岸は考える。
本当に考えているらしい。
数秒。
十秒。
駅前の雑踏だけが耳に入る。その間も白彼岸の視線は一度も逸れない。
ずっと真守を見ていた。
瞬きが少ない。見つめるというより観察に近い。いや、それとも違う、もっと別の何かだった。
「楽々浦様のお知り合いぃ?」
自信なさげに言った。
「俺が聞いてるんだよ!」
思わずツッコむ。
すると白彼岸は少しだけ目を丸くした。
驚いたような顔だった。けれど次の瞬間には、なぜか嬉しそうに笑っている。
理由は分からない。
「同じ中学だったんだよな?」
「そうだよぉ」
「何組だった」
「覚えてなぁい」
即答だった。
真守は言葉を失う。
「は?」
「覚えてなぁい」
同じテンションで繰り返される。
嘘をついているようには見えない。本当に覚えていないらしい。
「じゃあ部活は?」
「入ってなかったぁ」
「俺と話したことは」
「ないよぉ」
「じゃあなんで俺のこと知ってるんだよ」
「見てたからぁ」
「どこで」
「学校ぉ」
「学校のどこで」
「色んなとこぉ」
「答えになってねぇ!」
真守が頭を抱える。
白彼岸は困ったように笑った。だが、その表情はどこかおかしかった。
誤魔化している訳ではない、適当に答えている訳でもない、本気で答えている。本気で思い出そうとしている。その上で答えられない。
そんな風に見えた。
「高校入ってから探してたんだよな」
「うん」
「なんで」
「うーん」
白彼岸は少し考える。
夕焼け空を見上げる。何かを思い出そうとしているみたいだった。
「会いたかったからぁ」
「だからなんで」
「分かんなぁい」
即答だった。
真守は言葉を失う。
意味が分からない。
好きだから、憧れてるから、助けられたから、そういう理由ならまだ分かる。
だが白彼岸は違った。
会いたかった、でも理由は分からない。その答えに嘘は感じない。だから余計に不気味だった。
「おかしいだろ……」
真守が呟く。
白彼岸は嬉しそうに頷いた。
「うん」
「うんじゃねぇよ」
「でも会えたからぁ」
「だからなんなんだよ」
「うれしいなぁ」
真守は本気で頭が痛くなってきた。すると隣で見ていた葵が苦笑する。
「白彼岸さんって面白いね」
その言葉に白彼岸は反応しない。視線は真守のままだった。
葵が少し首を傾げる。
「白彼岸さん?」
反応なし。
「聞いてる?」
白彼岸がゆっくり瞬きをした。それから少しだけ首を傾げる。
「うん?」
やっと反応した。
「聞いてる?」
葵がもう一度聞く。
「聞いてるよぉ」
「じゃあ私なんて言った?」
数秒、白彼岸が考える。
やがて。
「覚えてなぁい」
真顔だった。
真守が固まる。
葵も固まる。
そして数秒後。
「……は?」
葵が眉をひそめた。
珍しかった。葵は基本的に怒らない。だが、今は明らかに機嫌が悪い。
白彼岸はそんなことに気付いていない。いや、気付いていても優先順位が違うのかもしれない。
視線はまた真守へ戻っていた。まるで葵が背景になったみたいに。
「あなたねぇ……」
葵が呆れたように言う。
「ごめんねぇ」
白彼岸は素直に謝る。
「本当に聞いてなかったぁ」
「いや、そこは分かってる」
「ごめんねぇ」
謝っている。
本当に申し訳なさそうでもある。だが、次の瞬間にはまた真守を見ている。
「楽々浦様ぁ」
「なんだよ」
「高校楽しいぃ?」
「は?」
話が飛んだ。
葵が額を押さえる。
「いや、だからさ」
「うん?」
「人の話聞いてる?」
「聞いてるよぉ」
「じゃあ今何の話してた?」
「楽々浦様の話ぃ」
「違う」
「違うのぉ?」
本気で不思議そうだった。
真守は少しだけ理解した。白彼岸は自分達と会話していない。いや、会話はしている。だが認識の仕方が違う。葵の言葉も聞こえている。けれど頭に残らない。
興味がないから。
まるで必要な情報だけを拾っているみたいだった。
「なぁ」
真守が聞く。
「俺のことどれくらい知ってるんだ」
白彼岸は少し考えた。
「名前ぇ」
「うん」
「顔ぉ」
「うん」
「同じ中学ぅ」
「うん」
「それくらいぃ」
「それだけ?」
「うん」
即答だった。
「じゃあなんで探してたんだよ」
「会いたかったからぁ」
「戻るな!」
白彼岸は少しだけ笑う。
その笑顔を見て真守は思う。やっぱり分からない。この少女が何を考えているのか、何を求めているのか、何一つ分からない。
ただ一つだけ分かることがある。
悪意はない。敵意もない。それなのに、妙に怖かった。
しばらくして真守は諦めた。これ以上話しても埒が明かない。何も分からない、むしろ混乱するだけだ。
「……もういい」
「いいのぉ?」
「いい」
真守は深くため息を吐いた。
「帰りましょう、葵先輩」
「賛成」
葵も即答だった。
むしろ少し疲れた顔をしている。
二人はそのまま歩き出した。
白彼岸はその場に立ったまま。だから終わったと思った。そう思っていた。
駅前を離れ、商店街へ入る。
夕方の空は少しずつ暗くなり始めていた。
その時、真守はふと違和感を覚える。誰かの視線を感じ、ゆっくり振り返る。
そこにいたのは、白彼岸だった。
数メートル後ろ。一定の距離を保ったまま歩いている。こちらが止まれば止まる。歩けば歩く。ただそれだけ。
「……何してる」
白彼岸も止まった。
「帰るのぉ」
「どこに」
少し考える。
本当に少しだけ考えてから。
「分かんなぁい」
と笑った。
真守は頭を抱える。
「じゃあなんでついてくる」
再び沈黙。
白彼岸は真守を見る。ずっと見ていた目で。それから、心底嬉しそうに微笑んだ。
「楽々浦様と一緒だからぁ」
その答えを聞いた瞬間、真守は初めて、本気で寒気を覚えた。




