212話 俺×警告=絶対に譲れません。
翌朝。
昨夜は何度も目が覚めた。
眠りが浅かったのか、それとも考え事をしていたからなのか、自分でもよく分からない。
目を開けるたびに思い出したのは、昨日のことだった。
墓地で見た『円山家之墓』という文字。そこで手を合わせていた赤坂の姿。そして、その帰り道に白ヶ崎と過ごした時間。
デートは楽しかった。
間違いなく楽しかったはずなのに、その最後に起きた出来事が全部をかき乱していた。
土下座、撮影されていたスマホ、笑い声。あの光景が何度も頭をよぎる。
「……」
制服のネクタイを整えながら小さく息を吐く。
考えても答えは出ない。だから、とりあえず学校へ向かった。
教室へ顔を出した後、真守はいつものように生徒会室へ向かっていた。
窓の外では運動部の朝練が見える。廊下には授業前のざわめきが響いている。いつもと変わらない朝。
そのはずだった。
だが、生徒会室へ近づくにつれて胸の奥に妙な違和感が広がっていく。
理由は分からない。それでも何かが引っかかっていた。
扉の前で立ち止まる。深呼吸を一つ、そして扉を開いた。
「失礼します」
いつも通りの挨拶。
しかし。
「おはよう、楽々浦君」
返ってきた会長の声を聞いた瞬間、真守は無意識に背筋を伸ばしていた。
声はいつも通りだった。
柔らかく穏やかで優しい。けれど何かが違う。怒鳴られているわけではない。睨まれているわけでもない。
それなのに空気だけが妙に重かった。
「……おはようございます」
返事をすると、会長は小さく微笑む。
「少し時間をもらってもいいかな」
「……はい」
断れる空気ではなかった。
真守は会長の机へ向かう。
室内は静かだった。池鶴も、三宝も、誰も口を開かない。まるで何かを待っているようだった。
会長は机の上に置いてあったスマホを手に取る。慌てる様子はない。怒っている様子もない。
朝のニュースでも見せるような自然さで画面を操作すると、そのまま真守へ向けた。
「これを見てくれるかな」
視線を落とした瞬間、真守は全てを理解した。
昨日の動画だった。繁華街の裏路地、白ヶ崎が捕まっている。そして自分が地面へ膝をつき、頭を下げている。タイトルには、
『八ツ星学園副会長、土下座』
そんな文字が付けられていた。再生数は既にかなり伸びている。コメント欄も酷い。
『生徒会ざまぁ』『副会長弱すぎ』『鉄拳制裁の報いだろ』そんな言葉が、好き勝手な言葉が並んでいた。
真守は何も言わず画面を見る。会長はそんな真守を見ながら静かに尋ねた。
「感想は?」
「……特にありません」
短く答える。
会長は少しだけ笑った。だが目は笑っていなかった。
「そうか」
そう呟くとスマホを机へ置く。
そして指を組みながら続けた。
「僕は残念だよ」
静かな声だった。
「学校の評判は下がる。生徒会全体の評判も下がる。僕の個人の評判も下がる」
淡々と並べられる言葉。怒鳴り声の方がまだ楽だった。静かだからこそ重い。
「そして何より」
会長の視線が真守へ向く。
「僕は君に赤坂の調査を頼んだはずだ」
「……」
真守は黙った。
墓地のことが頭をよぎる。
赤坂の姿ら円山家之墓。全部話すこともできた。だが、それは違う。赤坂は会いたがっていなかった。少なくとも今は。
だから会長には話せない。
「何か分かったことはあるかい?」
「……まだです」
即答だった。
嘘だった。でも、完全な嘘ではない。だが本当でもない。
「本当に?」
「……はい」
会長は数秒黙る。
その沈黙が妙に長かった。
やがて小さく息を吐く。
「そうか」
そう言ってから続けた。
「それなのに、随分余裕があるんだね」
「……」
「繁華街」
会長は動画を軽く叩く。
「遊びに行っていたのかな?」
「違います」
「違う?」
「……」
答えられない。
白ヶ崎とのデートだった。調査の帰りだった。それは、どちらも言えなかった。
会長は小さく微笑む。
「彼女ができたかどうかなんて、僕は興味ないよ」
穏やかな口調だった。
本当に興味がないようにも聞こえる。だからこそ次の言葉が異様だった。
「ただね」
会長は椅子へ深く腰掛ける。
「人は大切なものができると弱くなる」
静かな声。
「守りたいものができる。失いたくないものができる。だから判断を誤る」
真守は黙って聞いていた。
嫌な予感しかしなかった。
「楽々浦君」
名前を呼ばれる。
「君は優しいからね」
会長は穏やかに笑う。
「だからこそ心配なんだ」
そして、本当に自然な流れで言った。
「もし、その子が調査の邪魔になるなら」
一拍。
「退学にする」
「っ……!」
真守の表情が変わる。
空気が凍る。
池鶴も、三宝も、みんな動かない。
会長だけが静かだった。
「君のためだよ」
優しい声。
「余計なものは切り捨てるべきだ」
その瞬間だった。
「関係ないです」
真守が口を開く。
自分でも驚くほど強い声だった。
会長の目が僅かに細くなる。
「……なんだって?」
「白ヶ崎は関係ない」
真守は視線を逸らさない。
「今回の件にも、赤坂先輩の件にも、退学なんて話を出す必要はありません」
生徒会室が静まり返る。
今まで楽々浦真守は会長に逆らわなかった。その真守が初めて真正面から否定した。
「……」
会長はしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく笑う。
「そうか」
それだけだった。だが、その笑顔は今までで一番冷たく見えた。
「仕事に戻っていいよ」
真守は返事をしない。
そのまま踵を返し、副会長の席へ向かった。
胸の奥がざわつく。
怒りなのか、不安なのか、それとも別の何かなのか。自分でも分からなかった。
しばらくして生徒会室の扉が開く。
入ってきたのは黒ヶ峰だった。いつも通り無表情、いつも通り無愛想。
「……楽々浦」
「ん?」
「書類」
ファイルを差し出される。
真守が受け取ろうとした時だった。黒ヶ峰の視線が止まる。珍しくじっと見られていた。
「……なんだよ」
真守が聞く。
黒ヶ峰は少しだけ首を傾けた。
「顔」
「……は?」
「怖い」
即答だった。
「……」
思わず言葉に詰まる。
黒ヶ峰はさらに続ける。
「集中できてない」
「……そう見えるか」
「うん」
短い返事。
それから少しだけ間を置く。
「なんかあった?」
「別に」
反射的に答える。
だが黒ヶ峰は視線を逸らさない。
「嘘だ、会長と揉めてた」
「……」
「楽々浦」
その声は少しだけ柔らかかった。
「話くらいなら聞いてあげる」
真守は思わず黒ヶ峰を見る。
黒ヶ峰は相変わらず無表情だった。それでも今だけは、少しだけ違って見えた。
生徒会室の重苦しい空気の中で、その一言だけが妙に温かく感じられた。




