205話 俺×対象=不特定です。
生徒会室を出た後も、会長の言葉が頭から離れなかった。
──期待しているよ、楽々浦君。
優しい声だった。責めるような口調でもなかった。それなのに、胸の奥に重く残る。まるで逃げ道だけを塞がれたような感覚だった。
廊下を歩きながら、小さく息を吐く。
窓の外では太陽が校舎を明るく照らしていた。とても、静かな空気が流れている。
だが、真守の頭の中は全く静かではなかった。
赤坂先輩のこと、会長のこと、そして──白ヶ崎のこと。
考えないようにしても、ふとした拍子に顔が浮かぶ。
照れた顔、少しだけ嬉しそうだった表情、思い出した瞬間、胸の奥が妙に落ち着かなくなる。
「……」
小さく頭を振った。
その時だった。
スマホがまた震える。
画面を見る。
表示されていた名前は葵だった。
『楽々浦くん、今話せる?』
短いメッセージ。
真守はすぐに返信する。
『はい』
送信した直後、着信画面に切り替わった。通話ボタンを押す。
「もしもし」
『あ、出た』
聞き慣れた声だった。
それだけで少し肩の力が抜ける。
『今どこ?』
「生徒会室を出たところです」
『そっか』
少しだけ間が空く。何かを考えているような沈黙だった。
そして。
『……来れる?』
「え?」
『部屋にいるから。直接話したい』
真守は少し考える。
だが断る理由もなかった。
「……分かりました」
『うん』
短く返事が返ってくる。通話はそこで終わった。スマホを下ろす。
直接話したい。
その言葉だけで、少し空気が変わった気がした。真守はそのまま寮へ向かった。
歩きながら考える。
赤坂、施設、師範、会長。色々な情報が頭の中を巡る。そのはずなのに、不意に白ヶ崎の顔が混ざる。
「……」
ダメだ、考えるだけで妙に落ち着かない。
真守は再び頭を振った。
気持ちを切り替える。
今は赤坂だ、それ以外を考えている場合じゃない。そう自分に言い聞かせながら、葵の住む女子寮へ向かった。
部屋番号を確認する。インターホンを押し、数秒後、扉が開く。
「いらっしゃい」
葵が小さく笑った。
私服姿だった。学校ではまとめている髪も下ろしている。どこか柔らかい雰囲気だった。
「……どうも」
「入る?」
自然な口調だった。
けれど、真守は少しだけ迷う。以前の自分なら何も考えずに入っていただろう。
だが今は違う。
「……いや、ここで大丈夫です」
そう答えた。
葵の目が少しだけ見開かれる。ほんの一瞬だった。だが確かに驚いていた。
「……」
そして、ふっと笑う。少し寂しそうな笑顔だった。
「……なんか雰囲気変わったね」
「……え?」
「前だったら普通に入ってきたと思ったのに」
「……」
言葉が詰まる。
自分でも理由は分かっていた。でも口にするのは恥ずかしい。
葵はそんな真守を見ていた。そして、どこか諦めたように笑った。
「……あ、もしかして」
楽しそうな声を作る。
「できちゃった感じ?」
「……何がですか」
「彼女」
「っ……」
反応が早すぎた。
自分でも分かるくらい。
葵の笑顔が少しだけ固まる。本当にほんの一瞬だけ。けれど確かに、何かが傷付いたような顔だった。
「……図星だ」
「いや、その……」
言葉が出てこない。
葵は真守から視線を逸らした。少しだけ俯く。胸の奥がじわりと痛んだ。
葵は予想はしていた、気付いてもいた、でも、実際に答えを見せられると苦しい。
想像していたよりずっと。
それでも、笑った。笑わなければいけない気がした。
「……白ヶ崎さん?」
「……」
沈黙、それが答えだった。
葵は小さく息を吐く。胸の奥で何かが崩れる音がした気がした。
だけど、顔には出さない。彼女は出したくなかった。
「そっか」
優しく笑う。
無理をしていることが自分でも分かった。
「……よかったね」
その言葉は本心だった。
本当に嬉しい、白ヶ崎なら安心できる。真守を大切にしてくれる。だから祝福したい。
けれど、胸が痛かった。どうしようもなく、苦しかった。
「……ありがとうございます」
真守が頭を下げる。
葵は黙っていた。
少しだけ視線を落とす。
太陽が寮の廊下を明るく照らしていた。それが妙に綺麗で、だから余計に胸が痛んだ。
「……でも、安心した」
ようやく言葉を絞り出す。
「……え?」
「楽々浦くんって、ずっと危なっかしかったから」
「……そんなですか」
「そんなだよ」
即答だった。
「一人で抱え込むし」
「……」
「無茶するし」
「……」
「自分が傷付くのは平気なくせに、人が傷付くのは嫌がるし」
苦笑する。
葵はそんな中、思い出を振り返る。
本当に面倒な人だ。でも、そういうところが好きだった。だからこそ、誰かが隣にいてくれるなら安心できる。
少しだけ寂しいけれど、それでも。
「だから、ほんの少しだけ安心」
真守は何も言わなかった。
葵もそれ以上は続けない。これ以上話せば、きっと何かが零れてしまう気がした。
だから、空気を変える。
無理矢理にでも。
「……で」
葵が真面目な表情になる。
「赤坂さんのことなんだけど」
真守の表情が変わる。
さっきまでの空気が消える。
葵はそれを見ながら話を続けた。
「施設の人と少し話せた」
「……話せたんですか?」
驚きが滲む。
「どうやって……」
「普通に仲良くなった」
「いやコミュ力どうなってるんですか……」
「失礼だなぁ」
少しだけ笑う。だけど、その笑顔も長くは続かなかった。
葵は静かに息を吐く。
「……それでね」
表情が真剣になる。
「赤坂さん、昔から誰かを怖がってたみたい」
「……誰か?」
「うん」
葵は頷く。
「でも特定の誰かじゃない」
「……?」
真守は眉を寄せた。
意味が分からない。
葵も同じだった。施設の人たちも説明できなかったらしい。それでも、共通していた証言がある。
「赤坂さんね」
静かな声。
「ずっと言ってたみたい」
そして、その言葉を口にする。
「周りが傷つくって」
「……」
真守の表情が固まる。
師範の言葉が蘇る。自分に近付くな、巻き込まれる、傷付く。
まるで同じだった。
「……」
葵は続ける。
「多分」
少しだけ視線を落とす。
「今も誰かを怖がってる」
静かな沈黙が落ちる。
夕陽がゆっくりと沈んでいく。
幸せな時間は確かにあった。少し前まで、そこにあった。けれど、風向きが変わり始めている。
暖かな風の中に混ざる冷たい気配。まるで嵐の前触れだった。
誰かが幸せになれば、誰かが傷付く。そんな未来を予感させるように。
不穏な風が、静かに吹き始めていた。




