204話 俺×現実=止まってくれません。
校舎の廊下を歩く。
窓の外では昼の光がグラウンドを照らしていた。運動部の掛け声が遠くから聞こえてくる。文化祭が終わって数日が経ち、学校は少しずついつもの日常を取り戻していた。
それなのに、真守の中だけはまだ落ち着いていなかった。
神宮丸の大声、白ヶ崎の照れた顔、真希那の泣き顔。朝から何度も繰り返されたやり取りが頭の中に残っている。
思い返すたびに少しだけ頬が熱くなった。
「……」
小さく息を吐く。
昨日までとは違う。その実感だけは何度も押し寄せてくる。
白ヶ崎と付き合った。
たったそれだけのことなのに、見える景色が少しだけ変わった気がしていた。
廊下を歩きながら自然と考えてしまう。
今頃、白ヶ崎は教室で何をしているだろうか、昼休みにちゃんと話せるだろうか、帰りは一緒に帰れるだろうか、そんなことばかり考えている自分に苦笑した。
けれど、生徒会室へ近づくにつれて、その柔らかい気持ちは少しずつ消えていく。
現実が近づいてくる。
赤坂の件、会長の違和感、何も進んでいない調査。恋愛だけしていられる状況ではない。
それを嫌でも思い出させられる。
「……」
生徒会室の前で足を止める。
深呼吸を一つ。肺の中の空気を吐き出してから扉へ手をかけた。
「失礼します」
静かに中へ入る。
生徒会室の空気は変わらない。
紙の匂い、静寂、張り詰めた空気。何度来ても慣れない独特の息苦しさがそこにはあった。
「……おはようございます」
軽く頭を下げる。
すると。
「おはよう、楽々浦君」
会長が柔らかく微笑んだ。
いつも通りの声、いつも通りの笑顔。それなのに、真守は反射的に背筋を伸ばしてしまう。
「……」
視線が向けられる。
たったそれだけだった。それなのに、自分の中を覗き込まれているような感覚があった。
会長は少しだけ首を傾げる。
「少し、表情が変わったね」
「……え?」
思わず声が漏れた。
会長は楽しそうに笑う。
「何かいいことでもあったのかな?」
「……」
心臓が跳ねる。
一瞬だけ白ヶ崎の顔が頭に浮かぶ。けれどすぐに打ち消した。
「……特にそういうのは」
反射的に答える。
だが、自分でも分かっていた。多分隠せていない。神宮丸には一瞬で見抜かれた。真希那なんて言うまでもない。
会長ほどの人間なら気付いていても不思議じゃない。
「……そうか」
会長はそれ以上追及しなかった。
ただ静かに微笑む。
「それならいいんだ」
「……」
その反応が逆に怖い。何を考えているのか分からない。
会長は手元の書類へ視線を落とした。
「ただ——」
その一言で空気が変わる。さっきまでの穏やかさが少しだけ薄れる。
「赤坂の件は、まだ進展なしかな?」
「……っ」
胸の奥が小さく詰まった。
現実に引き戻される。
「……はい」
短く答える。
「……」
会長は静かに真守を見る。
怒っているわけじゃない。責めているわけでもない。それなのに重い。
「もう数日経っている」
穏やかな声だった。だがその一言一言がじわじわと圧をかけてくる。
「そろそろ、“分からない”では困るよ」
「……」
言葉が刺さる。
反論できなかった。何も進んでいないのは事実だからだ。
「……すみません」
小さく頭を下げる。
沈黙が落ちる。
数秒しか経っていないはずなのに、その時間がやけに長く感じた。
「……楽々浦君」
名前を呼ばれる。
顔を上げる。
会長は相変わらず微笑んでいた。
「君は優しいからね」
「……」
「全部、一人で抱え込もうとする」
その言葉に少しだけ心が揺れる。
この前、師範にも似たようなことを言われた。頼れ、と。一人で抱えるな、と。
「でも」
会長は続ける。
「優しさだけでは解決できないこともある」
「……」
赤坂の顔が浮かぶ。
施設で会えなかった時のこと、返事のない扉、拒絶、会いたくないという意思。
そして、白ヶ崎の顔も浮かぶ。
昨日、自分の気持ちを受け取ってくれた。守りたいと思った。失いたくないと思った。
だからこそ、今までよりも失敗できない気がしている。
「……」
色んな感情が頭の中で混ざる。
会長はそんな真守を静かに見ていた。何かを確かめるように、何かを待つように。
その視線が妙に居心地悪かった。
「……期待しているよ、楽々浦君」
会長が小さく笑う。
その一言だけで胸が重くなる。
期待。
信頼。
そう言われているはずなのに、なぜか追い詰められている気がした。
「……はい」
それしか言えなかった。
しばらくして真守は生徒会室を出る。
扉が閉まる。その瞬間、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
「……はぁ」
長く息を吐く。
思っていた以上に疲れていた。
壁に軽く背中を預ける。
「……なんなんだよ」
小さく呟く。
会長は何か知っているのか、それとも本当に急かしているだけなのか、分からない。
けれど、違和感だけは消えない。
赤坂の名前が出るたびに、会長の空気は少しだけ変わる。
その理由が見えない。
「……」
考えれば考えるほど分からなくなる。
その時だった。
スマホが震える。
「……?」
ポケットから取り出す。
画面を見る。
表示された名前を見た瞬間、真守の表情が変わった。
[葵先輩]
すぐにメッセージを開く。
そこには短い文章が表示されていた。
『ちょっといいかな?赤坂さんのことで少し分かったことがある』
「……っ」
心臓が跳ねる。
止まっていた歯車が、ようやく動き出したような感覚だった。
真守はスマホを握り直す。
さっきまで感じていた疲労が一気に消えていた。
赤坂に繋がる何か、ずっと探していた手掛かり。それが今、目の前に現れようとしている。
「……葵先輩」
小さく呟く。
そして真守は、すぐに返信を打ち始めた。




