200話 俺×恋=1になりました。
風が静かに吹いていた。
屋上に出てから、どれくらい時間が経ったのか分からない。ほんの数十秒なのかもしれない。
けれど真守には、それが何分にも何十分にも感じられた。
夕焼けに染まった空は少しずつ色を変えている。オレンジ色だった空の端には、もう薄い紫色が混ざり始めていた。
昼と夜の境目。
その曖昧な時間の中で、二人だけが取り残されているような感覚だった。
「……」
白ヶ崎は俯いたままだった。
何も言わない。けれど、離れようともしない。その距離だけが現実だった。
さっき、自分は言った。
咲音がいい、好きなんだ。逃げずに、誤魔化さずに、ちゃんと全部伝えた。
もう引き返せない。引き返したいとも思わない。それでも——。
「……」
落ち着かなかった。
心臓がうるさい。手のひらに汗が滲んでいるのが分かる。
返事を待つだけなのに、その時間だけが異様に長かった。
何度か生死を潜り抜けてきた。
事件にも巻き込まれた。
殴られたこともある。
殺されそうになったことだってある。
それなのに、今が一番緊張している気がした。
「……」
白ヶ崎の肩が小さく震える。
それを見た瞬間、真守の胸が少しだけ締め付けられた。
もしかして、困らせたんじゃないか、急ぎすぎたんじゃないか、そんな考えが頭をよぎる。
けれど、次の瞬間。
「……ずるい」
かすれた声が零れた。
責めるような声じゃない。怒っているわけでもない。
ただ、長い間押し込めていた感情が耐えきれなくなって、少しだけ外に漏れてしまったような声だった。
「……咲音」
名前を呼ぶ。
白ヶ崎は顔を上げない。けれど、その肩はまだ小さく震えていた。
「……私」
言葉が続かない。
喉の奥で何かが詰まっているみたいだった。何度も息を整えて。それでも上手く言葉にならない。
その姿を見ているだけで、真守は胸が苦しくなった。
ずっと抱えていたのだろう。
病院で出会ったあの日から。
何年もの間、誰にも言えず、誰にも届かず。
ずっと、一人で。
「……好きなの」
ようやく出てきた言葉は、とても小さかった。
風が吹けば消えてしまいそうなほど弱い声。けれど真守には、誰の言葉よりもはっきり聞こえた。
「……大好きなの」
その瞬間。
白ヶ崎の瞳から涙が零れた。
ぽろり、と。
一粒。
そしてもう一粒。
堰を切ったように次々と溢れていく。
「……」
真守は何も言えなかった。
言葉が見つからない。
見つける必要もなかった。その涙だけで全部伝わってきたからだ。
病院で出会った日のこと、初恋だったこと、再会した日のこと、文化祭、事件、一緒に過ごした時間。
全部。
全部。
この涙の中に詰まっている気がした。
「……私」
白ヶ崎が声を震わせる。
「ずっと……」
息が詰まる。
それでも言葉を止めない。
「ずっと会いたかった」
涙が頬を伝う。
「また会えた時、本当に嬉しくて……」
苦しそうに笑う。
「でも忘れられてて」
少しだけ目を伏せる。
「思い出してもらえても、今度は隣にいる人が多すぎて……」
小さく肩が震える。
「私なんて特別じゃないのかなって」
「……」
真守は何も言わない。
ただ聞く。
今はそれが一番大事だと思った。
「それでも」
白ヶ崎は続ける。
「諦められなかった」
涙で滲んだ瞳が真守を見る。
「ずっと好きだったから」
夕陽がその横顔を照らしていた。それはどこまでも綺麗で、どこまでも苦しそうだった。
「……」
真守は一歩だけ前へ出る。
白ヶ崎は逃げない。
もう逃げる必要がないから、手を伸ばす。ただ、少しだけ迷う。けれど、その迷いはすぐに消えた。
そっと手を握る。
温かかった。
驚くほど。
ずっと近くにいたはずなのに、初めて触れたみたいに温かかった。
白ヶ崎の肩が小さく震えるが、その手がゆっくりと握り返される。
「……俺も」
真守は静かに言った。
「同じだ」
飾らない言葉だった。
格好いい言葉なんて思いつかない。でも、それで十分だった。
白ヶ崎の瞳が大きく揺れる。
「俺さ」
少しだけ笑う。
「恋愛とか全然分かんなかったんだよ」
本音だった。
「誰かを好きになるって、もっと分かりやすいもんだと思ってた」
白ヶ崎が黙って聞いている。
「でも違った」
夕焼け空を見上げる。
「気付いたら隣にいて、気付いたら心配してて、気付いたら会いたくなってて」
小さく息を吐く。
「それが当たり前になってた」
そして。
もう一度白ヶ崎を見る。
「だから」
真っ直ぐに。
逃げずに。
「俺は咲音が好きだ」
はっきりと言った。
今度こそ、最後まで。
白ヶ崎の瞳からまた涙が零れる。けれど今度の涙は、少しだけ柔らかかった。
悲しい涙じゃない。
長い間抱えていた想いが、ようやく届いた安心の涙だった。
「……真守くん」
名前を呼ばれる。その声は泣きそうなくらい優しかった。
そして、白ヶ崎は一歩前へ出る。
真守の制服をぎゅっと掴む。離さないように、消えてしまわないように、確かめるように。
「……よかった」
小さく呟く。
本当に小さな声だった。
けれど真守にははっきり聞こえた。
「本当によかった……」
肩が震える。
泣いている。
ようやく、ずっと抱えてきた恋が報われたのだから。
真守は何も言わなかった。ただ、そっとその肩を抱き寄せる。
白ヶ崎も抵抗しない。静かに額を預けてくる。
夕焼けの光が二人を包む。
風が吹く。
さっきまで冷たく感じていたはずなのに、今はどこか優しかった。
遠回りだった、何度もすれ違った、たくさん迷った。それでも、ようやく辿り着いた。
ずっと探していた答えに。
白ヶ崎咲音は真守の胸に顔を埋める。真守はその温もりを感じながら、静かに空を見上げた。
少しずつ夜へ変わっていく空は、不思議なくらい綺麗だった。
そして、胸の奥に浮かんだ言葉を、小さく噛み締める。
──自分の恋が一つになった。




