197話 俺×一歩手前=まだ言えないです。
真守は自室を出た。扉が閉まる音が、やけに大きく聞こえた。廊下には誰もいない、静かな夜だった。
寮の中だというのに、人の気配はほとんど感じられない。遠くからテレビの音が微かに聞こえるくらいで、それ以外は驚くほど静かだった。
「……」
真守は歩く。数歩進めば着いてしまう距離、それなのに、妙に長く感じた。
白ヶ崎の部屋、ずっと隣にあった場所。今まで何度も訪れたことがある。
なのに今日は違った。一歩進むたびに胸の奥が少しずつ熱くなる。
「……」
足が止まる。
目の前には白ヶ崎の部屋の扉。ここまで来て、ほんの少しだけ迷った。
今ならまだ戻れる。何も言わなかったことにできる。いつも通りの日常に戻ることだってできる。
「……」
そんな考えが頭をよぎる。
けれど、真守は小さく首を振った。逃げない、そう決めた。
真希那にも言った、自分自身にも言った、もう誤魔化したくない。
「……行くか」
小さく呟く。
そして、インターホンを押した。ピンポーン、と静かな音が響く。
数秒、その短い時間が妙に長く感じた。
「……はい」
中から声が聞こえる。
聞き慣れた声だった。それだけで少しだけ安心する。そのまま、扉が少し開く。
「……真守くん?」
白ヶ崎が立っていた。
部屋着姿のまま。少しだけ驚いたように目を見開いている。
予想していなかったのだろう。
「どうしたの?」
静かな声だった。
「……ちょっと話したくて」
真守はそう答えた。
「うん」
白ヶ崎は小さく頷く。
それだけで何も聞かない。
そして扉を大きく開けた。
「入って」
部屋へ足を踏み入れる。
静かな空気に包まれる。
とてもシンプルな家具だらけだった。けれど白ヶ崎らしい部屋だった。余計な物は少なく、整頓されている。それは、どこか落ち着く空気がある。
真守は部屋の中央で立ち止まった。
「……」
言葉が出ない。
ここへ来るまでは決まっていたはずなのに、何から話せばいいのか分からなくなる。
そんな真守を見ながら、白ヶ崎も黙っていた。お互いに言葉を探している、そんな沈黙だった。
「……あの」
先に口を開いたのは白ヶ崎だった。
「赤坂先輩のこと……?」
恐る恐る確認するような声。
「……いや」
真守は首を振る。
「それもあるけど」
一度息を吐く。
「それ以上に話したいことがある」
「……」
白ヶ崎の表情が少しだけ変わる。
空気が変わった。部屋の温度が少しだけ下がったような錯覚さえあった。
「……」
白ヶ崎は何も言わない。ただ真守を見ている。まるで何かを覚悟するように。
「……俺」
真守は言葉を探す。
胸の鼓動がうるさい。
それでも逃げたくなかった。
「ちゃんと決めた」
「……」
白ヶ崎の瞳が揺れる。
ほんの少しだけ、けれど確かに。
「……何を?」
小さな声だった。
聞こえないほどではない。でも、壊れそうなほど弱い声だった。
「……」
真守は息を吸う。
そして、口を開いた。
「……俺は——」
その瞬間だった。
「……待って」
白ヶ崎が止めた。
真守の言葉が途中で止まる。
「……」
沈黙が落ちる。
白ヶ崎は視線を落としていた。握った拳に少しだけ力が入っている。
「……ごめん」
小さく首を振る。
「今……聞いたら」
言葉が続かない。
喉の奥で引っかかる。
「ちゃんと受け止められないかもしれない」
ようやく出た言葉だった。
「……」
真守は何も言えない。
白ヶ崎はゆっくりと目を閉じる。
怖かった。本当に怖かった。ずっと会いたかった人。ずっと忘れられなかった人。何年も胸の中に残り続けた初恋。
やっと再会できた。やっと思い出してもらえた。それなのに、目の前にいる真守はまだ揺れている。
赤坂のことを追っている。
迷っている、傷ついている、そんな状態で聞いてしまっていいのか。
もし期待した言葉じゃなかったら、もし違ったら、もし受け止めきれなかったら。
そう考えるだけで胸が苦しくなった。
「……怖いの」
正直な気持ちだった。飾りも誤魔化しもない、ただ本音だった。
部屋の空気が静かに揺れる。
「……」
真守はその言葉を聞いて、小さく息を吐いた。
責める気にはなれなかった。むしろ、白ヶ崎らしいと思った。
「わかった」
真守は静かに言う。
「……え?」
白ヶ崎が顔を上げる。
少しだけ驚いた顔。
「じゃあ」
真守は一歩だけ近づいた。
「明日、ちゃんと話す」
「……明日?」
白ヶ崎の目が見開かれる。
「俺、もう逃げないから」
真っ直ぐに言う。
迷いなく今度こそ、ちゃんと伝えるために。
「……」
白ヶ崎は何も言えない。
胸の奥が熱くなる。
嬉しい、怖い、安心する、全部が混ざる。
そんな感情だった。
そして、少しだけ目を逸らして。
「……うん」
小さく頷いた。
距離は近かった。手を伸ばせば届く、抱きしめることだってできる。
でも二人とも動かない。
動けなかった。今ここで何かをしてしまえば、明日がなくなってしまう気がしたから。
「じゃあ」
真守が一歩下がる。
「今日は帰る」
「……うん」
白ヶ崎も頷く。
扉へ向かう。
手をかける。
その時だった。
「……真守くん」
呼ばれて、振り返る。
白ヶ崎は少しだけ俯いていた。
そして。
「……明日」
小さく息を吸う。
「ちゃんと、話聞くね」
震えそうになる声を必死に抑えていた。
「……ああ」
真守は短く答える。
それだけだった。それだけなのに、不思議と十分だった。
部屋を出る。
扉が静かに閉まる。
廊下に一人残る。
「……」
真守はその場で立ち止まった。
胸の奥が熱く、鼓動が少し早い。もう戻れない、そんな実感があった。
「……あと少し、か」
小さく呟く。
そして自室へ向かう。
一方。
閉じられた扉の向こうで。
白ヶ崎はその場に座り込んでいた。
「……」
力が抜ける。
心臓がうるさい。手が震えている。
明日、全部が変わる。
長かった初恋が終わる日かもしれない。あるいは、ようやく始まる日かもしれない。
「……ずるい」
誰にも聞こえない声で呟く。
こんなに待たせたくせに、こんなに期待させるくせに。それでも、嬉しくて仕方なかった。
白ヶ崎はゆっくりと膝を抱える。
そして小さく目を閉じた。
今日。
きっと眠れない。
そんな予感だけが、胸の中に残り続けていた。




