194話 俺×師範=まだ迷ってるみたいです。
道場に着いた頃には、昼を少し過ぎていた。見慣れた門の前で足を止める。
古びた木の看板。
何度も見てきたはずなのに、最近はここへ来るたびに少しだけ違う感覚になる。
懐かしさと居心地の良さ。そして、自分でも説明できない安心感。
ゆっくりと門を開ける。ギィ、と軋む音が響いた。その瞬間、木の匂いが鼻をくすぐる。
畳の香り、汗の匂い、昔から変わらない空気。それだけで胸の奥が少しだけ落ち着いた。
「……」
靴を脱ぎ、中へ入る。
道場の中央では子供たちが稽古をしていた。元気な掛け声が響いている。
その様子を、師範が腕を組みながら眺めていた。
「……来たか、楽々浦」
低く落ち着いた声。
「押忍」
真守は軽く頭を下げる。
師範は少しだけ目を細めた。そして真守の顔をじっと見る。まるで何かを見透かすように。
「顔は悪くないな」
「そうですか?」
「おう」
短く返される。
だが次の瞬間。
「だが——」
そこで言葉が切れる。
師範は少しだけ息を吐いた。
「迷いは残っとる」
「……」
思わず苦笑が漏れそうになる。
図星だった。ここまで分かりやすい反応をされると、否定する気にもならない。
「顔に出てますか?」
「顔にも出とるし、歩き方にも出とる」
「そんなにですか」
「そんなにだ」
即答だった。
真守は肩を落とす。
師範は小さく笑った。
「まあ、それだけ考えとるってことだ」
その言葉だけは少し優しかった。
それから軽く準備運動を済ませる。
道着ではない、それでも身体は自然に動いた。足を開く、拳を握る、構える。その感覚だけは忘れていない。
「来い」
師範が言う。
真守は踏み込んだ。
距離を詰め、拳を出す。だが、避けられる。そして、返しが来る。受ける。
身体は動いていた。思っていた以上に。昔の感覚が残っていることに、自分でも驚く。
だが。
「……甘い」
低い声が耳に届く。
次の瞬間には視界が回転していた。気付けば畳の上に転がっている。
「っ……」
肺の空気が押し出される。師範は動かない。ただ見下ろしていた。
「動きは悪くない」
静かな声だった。
「だが決めきれん」
「……」
言い返せない。
自分でも分かっていた。攻めているつもりでも、どこかで止まっている。踏み込み切れていない。
「迷いがある動きだ」
「……やっぱり、分かりますか」
「当たり前だ」
師範が手を差し出す。
真守はその手を掴み、立ち上がった。
昔から変わらない手だった。大きくて硬い。何度も投げられ、何度も引っ張り上げられた手。
「……そういえばな」
師範がふと思い出したように言う。
「この前お前が帰ってから、少し思い出したことがあってな」
「……?」
自然と意識が向く。
「赤坂のことだ」
その名前が出た瞬間、胸の奥が僅かに反応する。
「……あいつはな」
師範は少し遠くを見る。
昔を思い出しているようだった。
「一人でおることが多かった」
「……」
「だが、別にいじめられとったわけじゃない」
「……え?」
思わず声が出る。
今まで聞いていた印象と違ったからだ。
「じゃあ、なんで……」
「誰か一人に執拗に嫌がらせを受けとった」
「……」
空気が少し重くなる。
「周りの人間は巻き込まれて傷ついとったらしい」
真守は黙って聞いていた。
頭の中で整理しようとする。
だが上手く繋がらない。
「……それって」
言葉を探す。
「どういう意味なんですか」
「そこまでは知らん」
師範は首を横に振った。
「だがな」
少しだけ目を細める。
「あいつは言っとった」
そして静かに続けた。
「自分のせいで周りが傷ついとる、とな」
「……」
胸の奥が重くなる。
施設で会えなかった理由、あの日の拒絶、その全てが少しだけ繋がりそうになる。
けれど、まだ足りない。決定的な何かが見えない。
「……まあいい」
師範が話を切る。
「それより、お前だ」
「……俺ですか」
「ああ」
即答だった。
「お前には迷いが二つある」
「……二つ?」
「一つは外だ」
赤坂、会長、過去、今抱えている問題。おそらくそれだろう。
そして。
「もう一つは内だ」
「……」
真守は黙る。
内。
その言葉だけが引っかかった。
「……その内の一つはな」
師範は続ける。
「お前次第で解決できることだ」
真守は少し考えた。
赤坂ではない、会長でもない、なら何だ。頭のどこかで答えに近いものが浮かびそうになる。
だが掴めない。
「……なんとなくですけど」
「うん?」
「少しだけ分かる気がします」
師範は小さく笑った。
「そうか」
それ以上は教えてくれない。きっと自分で気付けということなのだろう。
「まずはな」
師範が言う。
「お前の周りを固めろ」
「……周り?」
「一人でなんとかしようとするな」
その一言が真守の胸に刺さる。
「お前は昔からそうだ」
静かな声だった。
「全部自分で抱え込む」
「……」
否定できなかった。
赤坂のことも、記憶のことも、会長のことも、結局、一人で解決しようとしていた。
「頼れ」
師範は短く言う。
「それができて初めて前に進める」
その言葉は妙に重かった。
同時に、どこか優しかった。だからこそ胸に残る。
その後は子供たちの指導を手伝った。
上手くできずに何度も失敗する子、焦って空回りしている子、昔の自分を見ているようだった。
「力入りすぎだな」
肩に手を置く。
「そんなに焦らなくていい」
子供は真剣な顔で頷く。
「ゆっくりでいいから、ちゃんとやれ」
「……押忍!」
元気な返事。
その姿を見ながら、真守は少しだけ笑った。
焦っているのは自分の方かもしれない。そんなことを思った。
やがて稽古が終わる。
道場を出る頃には空が少し赤く染まり始めていた。
帰り道、師範の言葉を何度も思い返す。
迷いは二つ。そのうちの一つは自分で解決できる。周りを頼れ。一人で抱え込むな。
「……」
赤坂のことではない気がした。会長のことでもない。もっと近くにある何か。
ずっと見ているはずなのに、見ようとしていない何か。
「……覚悟、か」
小さく呟く。
そして寮へ戻り、玄関を開ける。リビングでは白ヶ崎が相変わらず本を読んでいた。
真守が入ってくると、すぐに顔を上げる。赤い瞳がこちらを見る。
「……どうだったの」
静かな声だった。
「……別に、大きな進展はない」
正直に答える。
白ヶ崎は黙って聞いている。
「ただ」
真守は少しだけ視線を落とした。
「覚悟が足りなかったかもしれないって思った」
「……覚悟?」
「ああ」
頷く。
「なんか言われた通り、中途半端だったのかもな」
言いながら苦笑する。
白ヶ崎は何も言わない。ただ静かにこちらを見ている。その視線の意味に、真守は気付かない。
「……そっか」
返ってきたのは短い言葉だった。けれど、その声は少しだけ寂しそうだった。




