189話 俺×学校=少しだけズレていました。
まだ日が昇りきる前の時間だった。空は薄い群青色のまま止まっていて、街灯だけが静かに道を照らしている。
朝特有の冷たい空気が肌を撫でる。吐いた息が少しだけ白い。
「……眠い」
真守は小さく呟いた。
体が重い。
昨日は実家に帰り、道場へ行き、施設へ行き、そして赤坂のことを考え続けていた。
疲れていないはずがなかった。頭の奥に薄い霧がかかったような感覚が残っている。
「真守くん、ちゃんと歩いて」
隣から白ヶ崎の声が飛んでくる。少し呆れたような口調だった。
「……歩いてる」
そう返したものの、自分でも足取りが重いのは分かっていた。
「歩いてる人はそんな顔しない」
「どんな顔だよ」
「今にも寝そうな顔」
「……否定できない」
素直に認めると、白ヶ崎が小さく息を吐いた。
「ほら、急いで」
「はいはい」
駅へ向かう。
通学時間にはまだ早い。だから人も少ない。コンビニへ向かうサラリーマン、犬の散歩をしている老人、そんな人たちとすれ違うだけだった。
その静かな空気が妙に心地いい。
学校へ向かう朝なのに、どこか現実感が薄かった。
電車に乗る。車内は空いていた。そのまま、三人並んで座る。
白ヶ崎、真守、真希那。いつもの並び。それなのに、どこか不思議な感覚があった。
昨日まで実家にいたからだろうか、それとも赤坂のことが頭から離れないからだろうか。
「……」
座った瞬間だった。
体が椅子に沈み込む。
「あー……」
思わず声が漏れる。
「おじさんみたい」
白ヶ崎が呆れる。
「疲れてるんだよ」
「知ってる」
短いやり取り。
それだけで少しだけ気が楽になる。
「……ちょっとだけ」
真守はそう言って目を閉じた。
揺れが心地よい。
電車の規則的な音が耳に響く。
ガタン。
ガタン。
一定のリズム。
それが子守歌みたいだった。
気づけば意識が沈んでいく。
そして——
肩に重みを感じた。
「……ん」
ゆっくり目を開ける。
最初に見えたのは窓の外だった。朝日が少しずつ昇り始めている。
その次に視界へ入ったのは——
白い髪。
「……」
白ヶ崎だった。
こちらへもたれかかっている。規則正しい寝息、長い睫毛、無防備な寝顔。
「……」
珍しい、普段なら絶対に見られない姿だった。さらに反対側、こちらにも重みがある。
視線を向ける。
「……」
真希那だった。
口を半開きにして寝ている。完全に油断しきった顔。
「……」
見事に挟まれていた。
「なんだこれ」
思わず笑う。
朝の車内。
誰も見ていない。それでも少しだけ恥ずかしい状況だった。
けれど、不思議と嫌じゃない。むしろ、どこか安心する。昨日まで重かった胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
しばらくそのまま時間が流れる。
やがてアナウンスが響いた。
目的の駅。
「……着いた」
小さく声をかける。
白ヶ崎が先に目を開く。
「……ん」
ぼんやりした目。
数秒後、状況を理解したらしい。
「……あ」
耳が少し赤くなる。
「……ごめん」
「別に」
真守は軽く肩をすくめた。
「気にしてない」
「……そう」
白ヶ崎は少しだけ視線を逸らした。その反応が少しだけ可笑しかった。
そして、反対側。
「まーくん……」
真希那はまだ寝ていた。
「……起きろ」
肩を揺らす。
「んー……」
反応が遅い。
「着いたぞ」
「……着いた?」
「着いた」
「じゃあ起きる……」
全然起きていなかった。結局、ホームへ降りるまでに数分かかった。
駅から寮へ向かう。
見慣れた道、見慣れた景色、それなのに、実家から戻ったばかりだからか、少しだけ新鮮に見えた。
寮の部屋へ入る。その瞬間、現実へ戻ってきた感覚があった。
「……」
さっきまでの緩い空気が少しずつ消える。
学校、生徒会、赤坂、考えるべきことが戻ってくる。
「準備するか」
「……うん」
白ヶ崎が頷く。
真希那はまだ眠そうだった。
制服へ着替える。
ネクタイを締め、鞄を持つ。いつも通りの動作。毎日繰り返しているはずなのに、今日は妙にぎこちなく感じた。
「行くか」
「うん」
「いってらっしゃ〜い」
真希那がソファから手を振る。
「真希ねぇも会社行けよ」
「やだー」
即答だった。
「……」
いつも通りだ。本当に、いつも通り。なのに、どこか違う。
学校へ向かう。
文化祭の余韻はまだ残っていた。廊下には飾りが一部残っている。教室では思い出話をしている生徒も多い。
笑い声、雑談、平和な空気。それが広がっていた。
「……」
その中にいるはずなのに、真守だけが少し浮いている気がした。
昨日、自分だけ違う場所へ行っていたからかもしれない。赤坂のことを知ってしまったからかもしれない。
あるいは——
真実へ近づき始めているからかもしれない。
「じゃあ私、教室行くね」
白ヶ崎が言う。
「……ああ」
「また後で」
「うん」
短いやり取り。
その背中を見送る。それから真守は生徒会室へ向かった。
ドアの前で足が止まる。ほんの一瞬だけ。
そして、昨日までの出来事が頭をよぎる。
施設、赤坂、母親の言葉。
「……」
小さく息を吐く。
そして扉を開けた。
「来たね、楽々浦君」
会長の声。柔らかく、いつも通り。だからこそ少しだけ怖かった。
「……はい」
中へ入る。
会長がこちらを見る。
「少し、いいかな」
「……はい」
向かいへ座る。
会長は静かに足を組んだ。
「赤坂の件だけど」
その名前だけで心臓が少しだけ反応した。
「何か分かったことはあるかい?」
「……」
真守は一瞬だけ考える。施設のこと、赤坂のこと、全部言うべきなのか。
「……まだ二日しか経ってないので」
結局出てきたのは曖昧な言葉だった。
「分からないことの方が多いです」
嘘だった。けれど全部が嘘でもない。真実を隠した半分だけの答え。
「……そうか」
会長が頷く。
そして——
見てくる。
静かに。
じっと。
何も言わないまま。
「……本当に?」
ぽつりと落ちた言葉。
それだけなのに重かった。
「……はい」
真守も視線を逸らさない。
沈黙。
数秒。
それだけなのに妙に長く感じた。
やがて。
「……まあ、いい」
会長が微笑む。
「楽々浦君のことは信じているからね」
優しい言葉。けれど、なぜだろうか、胸の奥に小さな棘が残った。
「……ありがとうございます」
それだけ返す。
会話は終わった。
席へ戻り、椅子へ座る。小さく息を吐く、そしてスマホを取り出した。
「……」
今聞きたいことがある人は一人だけだった。
通話ボタンを押す。
数コール。
『……もしもし?』
葵の声だった。
聞き慣れた声。
それだけで少しだけ肩の力が抜ける。
「……すぐ、でましたね」
『うん。暇だし』
少しだけ笑う声。
「……この前のことで聞きたいことがありまして」
『赤坂さんのこと?』
「はい」
通話を続けながら、真守は窓の外を見る。校庭では生徒たちが笑っていた。
日常は続いている。
けれど。
自分だけが少しだけズレている、そんな感覚だけが、まだ消えなかった。




