188話 俺×決意=やるべきことが見えてきました。
施設を後にする。住宅街の細い道を歩きながら、真守は一度も後ろを振り返らなかった。
振り返れば、何かが変わる気がした。けれど、そんな都合のいいことが起きるはずもない。だから前だけを見る。
それなのに、頭の中では何度も施設の玄関が浮かんでいた。
「……」
隣を歩く白ヶ崎も何も言わない。気を遣っているのが分かった。無理に励まそうともしない、大丈夫かとも聞かない、ただ隣にいる。
今はそれがありがたかった。何か言われても、きっと上手く返せなかったからだ。
駅までの道がやけに長く感じる。
行きはあっという間だった。施設へ向かう時は、とにかく答えが欲しかった。だから足も自然と前へ出ていた。
けれど今は違う。
知りたいことは増えたのに、答えは何一つ手に入っていない。歩くたびに靴底が重くなるような感覚だった。
「……」
駅に着き、改札を通る。そして、電車に乗る。窓の外の景色が流れていく。
それでも真守の頭の中は、ずっとあの施設のままだった。
職員の女性、拒絶する言葉、そして——自分の叫び。
『赤坂先輩!!』
思い出すだけで胸の奥が熱くなる。
あれは本当に届いただろうか、聞こえていたのだろうか。もし聞こえていたとして、赤坂は何を思ったのだろう。
嬉しかったのか、迷惑だったのか、それとも——何も感じなかったのか。
「……」
分からない。考えても答えは出ない。それでも考えてしまう。
気づけば最寄り駅に着いていた。ホームへ降りる。
白ヶ崎も何も言わない。二人で静かに歩く。夕暮れが近づいていた。空は少しずつ橙色に染まり始めている。
それなのに胸の中だけは曇ったままだった。
やがて家が見える。見慣れた玄関、いつもと変わらない景色。
「……」
真守は少しだけ足を止めた。
昨日までなら何も考えずに入っていたはずなのに、今日は妙に現実へ戻るのが怖かった。
施設で何も得られなかった現実を認めることになる気がして。
それでも、いつまでも外にいるわけにはいかない。ゆっくりと扉を開ける。
「おかえり」
すぐに聞こえてきたのは母親の声だった。いつもと変わらない、だからこそ少しだけ安心する。
「……ただいま」
短く返す。
靴を脱ぎながら視線を落とす。
何を話せばいいのか分からなかった。
施設でのこと、赤坂のこと、何から話せばいいのか整理できていない。
けれど、母親は何も聞かなかった。結果だけを知っているように。
「……会えなかったのね」
静かに言う。
「……」
真守は顔を上げる。
その表情は優しかった。責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ事実を受け止めるような顔。
「……うん」
小さく答える。
それだけだった、それだけで十分だった。
玄関に静かな空気が流れる。時計の針の音がやけに大きく聞こえた。
「……でも」
母親が続ける。
「ちゃんと届いてると思うわよ」
「……え?」
思わず顔を上げる。
「真守の気持ち」
優しい声だった。けれど、その言葉には不思議な確信があった。
「……」
真守は何も言えない。
届いている、本当に?
根拠なんてない。でも、その言葉だけは妙に胸に残った。
「だから」
母親は静かに続ける。
「今は、自分がやるべきことをやりなさい」
「……」
その言葉を聞いた瞬間、少しだけ頭の中が整理される。
会えなかった、それは事実だ。でも、だから終わりじゃない。むしろ始まったばかりだ。
赤坂がいることは分かった。逃げられた理由は分からない。それでも、前よりは確実に進んでいる。
「……わかったよ」
小さく頷く。
「母さん」
「なに?」
「……ありがとう」
母親は少しだけ驚いた顔をした。
それから小さく笑う。
「珍しいこと言うわね」
「うるさい」
そう返すと、少しだけ肩の力が抜けた。
そのまま自室へ戻る。扉を閉め、静寂が広がる。
ベッドへ腰を下ろした瞬間、一気に疲れが押し寄せてきた。
体じゃない、心の疲れだった。
「……」
天井を見上げる。
赤坂の顔が浮かぶ。
笑っている顔、怒っている顔、記憶の中の断片、施設で会えなかった現実、全部が混ざり合う。
それでも、不思議と絶望はしていなかった。施設へ行く前よりは、ずっと前を向けている気がした。
スマホを取り出す。
画面を開く。
赤坂の名前。少しだけ迷う。何度も打ち直す。消して、また打って。
結局、残ったのは短い言葉だった。
——会いに行った
——話したいことがある
——謝りたい
送信する。
画面は静かなままだった。
既読はつかない、返信も来ない、当然だ。それでも、送らなければ後悔する気がした。
「……」
スマホを置く。
ふと別の考えが浮かぶ。
会長、生徒会。
赤坂の居場所を報告するべきなのか。生徒会の人間として考えるなら、答えは簡単だった。
伝えるべきだ。
会長なら確実に動く。三宝も動く。大きな力になるはずだ。
「……」
けれど、胸の奥に小さな違和感が残る。
施設での反応、職員の態度、赤坂の拒絶。あれは単純な失踪じゃない。
何かがある。
そんな気がしてならなかった。
「……」
真守は目を閉じる。
しばらく考える。
そして、結論はすぐに出た。
「……やめとくか」
小さく呟く。
今はまだ、生徒会には報告しなくていい。それでいい。
外から声が聞こえる。真希那の笑い声、白ヶ崎の落ち着いた返事、内容は聞こえない。
けれど、その空気はいつも通りだった。
変わらない日常、守りたかったもの。その声を聞いているだけで少しだけ安心する。
「……」
天井を見る。
やるべきことは見えてきた。
赤坂のこと、記憶のこと、祇園のこと。まだ終わっていない問題はいくらでもある。
でも、もう迷うだけの時間は終わりだ。
「……明日から」
小さく呟く。
「また頑張るか」
誰に聞かせるでもない言葉。けれど、その声は少しだけ前を向いていた。
窓の外では夕日が沈み始めている。長かった一日が終わる。
そして——
新しい一日が、もうすぐ始まろうとしていた。




