186話 俺×妄想=勝手に話が進んでます。
道場を出る。古びた木の引き戸が静かに閉まる音が背後で響いた。
さっきまでいた空間は、どこか時間の流れが違った気がする。
木の匂い、畳の感触、師範の声、どれもまだ身体の中に残っていた。
「……」
空を見上げる。夕方の空は少しずつ色を変え始めていた。
昼と夜の境目。赤く染まりかけた空を見ながら、真守はゆっくりと歩き出す。
頭の中は、さっき聞いた話で埋まっていた。
赤坂唯、児童養護施設、誰よりも努力したこと、そして——、
お前の話をする時だけ笑う。
師範の言葉が何度も頭の中で繰り返される。
「……」
思い出せない。それなのに、引っかかる。胸の奥に小さな棘みたいな違和感が残っている。
記憶はない。けれど、何か大事なものを忘れている気がする。それだけは分かる。
「……」
小さく息を吐いた。
考えても今は答えが出ない。それも分かっている。だから無理やり思考を止める。
今できることは、明日施設へ行くことだけだ。それ以上はない。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか家の前まで戻ってきていた。
見慣れた玄関、夏休みに帰ってきた時と変わらない。それなのに今日は少しだけ違って見える。
「……」
ほんの少しだけ立ち止まる。
師範の話を聞いた後だからだろうか。この家があること、帰る場所があること、それが当たり前じゃない人もいるのだと、改めて実感してしまった。
「……」
そのまま扉を開ける。
すると。
「——で!?どこまでいってるの!?」
爆音だった。
「……は?」
思わず固まる。
静かな道場から帰ってきた直後だった。落差がひどい。脳が処理を拒否する。
「……」
ゆっくりと視線を向ける。
リビング、テーブル、そこには——。
白ヶ崎と真希那が向かい合って座っていた。
いや、正確には違う。真希那が一方的に詰め寄っていた。
白ヶ崎は椅子の背もたれに背筋を伸ばしたまま座っている。対する真希那は身を乗り出している。それは、完全に尋問だった。
「……何してんの?」
思わず口から漏れる。
二人の視線が一斉にこちらを向く。
「まーくん!」
「真守くん」
ほぼ同時だった。
温度差はすごい。
「……いや、ほんと何してんの」
靴も脱がずにその場で立ち尽くす。
「ちょうどいいところに!」
真希那が勢いよく立ち上がる。その勢いで椅子が少し後ろにずれた。
「ねえ、付き合ってるの!?」
「は?」
理解不能だった。
「どこまでいったの!?手は!?キスは!?それとももう——」
「待て待て待て待て」
真守は慌てて制止する。
「話飛びすぎだろ」
「飛んでない!」
真希那は本気だった。
本気だから余計に面倒だった。
「重要な問題だから!」
「どこがだよ……」
「全部だよ!」
「全部ってなんだよ……」
心底疲れた声が出る。
すると。
「……お母様の前で、そのようなことは」
白ヶ崎が静かに口を開いた。
落ち着いた声だった。
だが。
「お母様!?」
真希那が食いつく。
「今お母様って言った!?」
「言ってません」
即答だった。
「絶対言ったよね!?」
「言ってません」
「言った!」
「言ってません」
「言った!」
「言ってません」
「言った!」
「言ってません」
「……」
真守は頭を抱えた。
帰ってきて五分も経っていない。なのに疲労感がすごい。
「いや、そこじゃないだろ」
「そこだよ!?」
真希那が叫ぶ。
「そこ重要だから!」
「重要じゃない」
「重要!」
「重要じゃない」
「重要!」
「重要じゃない」
「はいはいそこまで」
母親が割って入る。
いつの間にか少し離れた場所で腕を組んでいた。完全に見物していたらしい。
「……あんたには関係ないでしょ」
「あるよ!?」
真希那が即答する。
「まーくんのことだよ!?」
「だからって全部、聞く必要はないでしょ」
呆れたような声。
「……」
真希那が少しだけ黙る。それでも納得していない顔だった。
「それに」
母親が続ける。
「本人帰ってきたんだから本人に聞きなさい」
「……あ」
真希那の視線がゆっくりと真守へ向く。
嫌な予感しかしない。
「……で?」
「いや知らんわ」
即答だった。
「俺に振るな」
「なんで!?」
「なんでもだよ……」
額を押さえる。
結局そこからもしばらく騒ぎは続いた。
真希那は勝手に妄想を膨らませるし、白ヶ崎は淡々と否定するし、母親は面白そうに眺めている。最終的に、全員が疲れて終わった。
「……はぁ」
ソファに腰を下ろす。身体が沈み込む。
道場の手合わせより疲れた気がする。間違いなく気のせいじゃない。
「……大丈夫?」
隣から小さな声がする。
白ヶ崎だった。
「ああ……まあ」
苦笑しながら答える。
「そっちは?」
「……それなりに」
少しだけ視線を逸らす。その反応だけで大体察した。相当聞かれたのだろう。
「……悪かったな」
「別に」
そう言う。
けれど、声は少しだけ柔らかかった。
気づけば窓の外は暗くなっていた。夕焼けは消え、街灯が灯り始めている。
時間が経つのは早い。
「……今日は」
真守が立ち上がる。
「もう休むか」
「そうね」
母親が頷く。
すると。
「……というか」
真希那が当然のように言った。
「今日は私も泊まるから」
「……ああ」
理解する。
この人は最初から帰るつもりがなかった。
「監視するから」
「何をだよ」
「全部」
「やめろ」
即答だった。
そんなやり取りをしながら、それぞれ部屋へ戻る。
扉を閉めた瞬間、世界が変わった。さっきまでの騒がしさが嘘みたいに静かになる。
「……」
少しだけ沈黙。
白ヶ崎がこちらを見る。
「……どうするの」
小さな声だった。
真希那に聞こえないように。それでも、意味は伝わる。
「……」
真守は少し考える。
そして、少しだけ距離を縮めて。
「……今日は別々にしとくか」
同じように小さく返した。
「……真希ねぇいるし」
理由はそれだけだった。でも、それだけで十分だった。
「……うん」
白ヶ崎が頷く。
それ以上は何も言わない。少しだけ視線が重なるが、すぐに逸れる。
ただそれだけ、それだけなのに。昨日までとは違う何かがそこにあった。
言葉にしなくても伝わる距離、無理に確認しなくてもいい関係、そんな空気だった。
やがて白ヶ崎は静かに部屋を出ていく。
扉が閉まる。
真守はベッドへ腰を下ろした。
「……」
天井を見る。
今日だけで色々ありすぎた。
考えることは山ほどある。でも、その中でも一番強く残っているのは。
施設だった。
「……」
目を閉じる。
そして、答えはすぐに決まる。
「……明日」
小さく呟く。
「行くか」
その言葉だけを残して、真守の意識はゆっくりと眠りへ沈んでいった。
⸻
翌朝。
目を覚ました時、家の中は妙に静かだった。昨日の騒ぎが嘘みたいだった。
リビングへ向かう。
すると、白ヶ崎が先に起きていた。窓際の席に座り、朝日を受けながらお茶を飲んでいる。
その姿が妙に綺麗で、一瞬だけ見惚れそうになった。
「……おはよう」
「おはよう」
短い挨拶。
それだけなのに、少しだけ安心する。沈黙が落ちる。それは、嫌な沈黙じゃなかった。
「……今日」
真守が口を開く。
「一緒に来てほしい」
白ヶ崎が目を瞬かせる。
「……どこに?」
「施設に」
そのまま視線を向ける。
白ヶ崎は少しだけ考えた。
本当に少しだけ。
そして。
「……うん」
静かに頷いた。
その返事は、昨日よりも少しだけ近く感じられた。




