185話 俺×幼少期=知らなかったことがまだありました。
道場の中は静かだった。
さっきまで響いていた踏み込みの音も、拳が風を切る音も、今はもうない。
残っているのは、朝の光と木の匂いだけだった。
真守は畳の上に腰を下ろす。じんわりと汗ばんだ背中に、少し冷えた空気が触れる。
窓は半分ほど開いていて、外から風が流れ込んでいた。
庭の木々が揺れる音、どこか遠くで鳴いている鳥の声、そんなものが混ざり合いながら、ゆっくりと時間が流れている。
「……」
呼吸を整える。
激しく動いたはずなのに、不思議と嫌な疲労感はなかった。むしろ、心の方が少し軽くなっている。
最近はずっと、生徒会だの事件だの人間関係だので頭がいっぱいだった。
考えても答えが出ないことばかりで、気づけば気を張っている時間の方が長くなっていた。
だからなのかもしれない。
こうして何も考えずに身体を動かした時間が、思った以上に心地良かった。
「ほら」
声と共に、湯呑が差し出される。
「……ありがとうございます」
受け取る。
湯気が立っていた。指先にじんわりと熱が伝わる。
湯呑を両手で包み込むと、それだけで少し落ち着く気がした。
一口飲む。温かい茶が喉を通り、身体の奥へ落ちていく。
「……久しぶりに動いたな」
向かいに座った師範が呟く。
「……そうですね」
真守は小さく笑った。
「昔は毎日のように来てたのにな」
「……」
その言葉に、少しだけ視線を落とす。
覚えていない、それなのに、ここにいると、不思議と懐かしい。
窓の位置、壁に掛けられた木刀、隅に積まれた防具、全部が初めて見るはずなのに、どこか知っている気がする。
そんな感覚だけが残っていた。
「……まあ、無理もないか」
師範は苦笑する。
「全部覚えてるわけじゃないんだろ」
「……はい」
真守は頷く。
「細かいことはほとんど」
「そうか」
それ以上は聞いてこない。
無理に思い出させようともしない。その気遣いがありがたかった。
道場の空気は不思議だった。学校とも違う、家とも違う、どこか落ち着く。まるで時間だけが少しゆっくり流れているみたいだった。
「……」
湯呑を見つめる。
薄い茶色の水面が、わずかに揺れていた。何を聞くべきか考える。
本当は聞きたいことがたくさんあった。
過去のこと、事故のこと、失われた記憶のこと。でも今、一番気になっているのは。
「……赤坂さんって」
自然とその名前が出ていた。
師範は少しだけ目を細める。
「ああ」
短い返事だった。けれど、その声色だけで何かを思い出しているのが分かる。
「……どんな人だったんですか」
真守は尋ねる。
記憶のない自分が知ることのできない時間。
そこにいた赤坂唯を。
「……そうだな」
師範は天井を見上げる。
少しだけ考えるように。
「最初に来た時は、暗い子だった」
静かな声だった。
「何をやらせても上手くいかん」
小さく笑う。
「転ぶし、泣くし、怒るし」
「……」
想像してしまう。
今の赤坂からは考えにくい。けれど、なんとなく納得もできた。
「センスはなかった」
師範ははっきり言う。
「正直、空手向きじゃなかった」
「そんなにですか」
思わず聞き返す。
「そんなにだ」
即答だった。
その言い方に思わず笑ってしまう。
「でもな」
師範の声が少し変わる。
「誰よりも来た」
真守は笑うのをやめる。
「誰よりも練習した」
静かな声だった。
けれど。
その一言一言が重かった。
「才能がないなら努力するしかないって、本気で思ってたんだろうな」
師範は遠くを見る。
昔を思い出しているようだった。
「……楽々浦と出会った時のことも、話すか」
「……」
視線が上がる。
「お前がこの街に転校してきたばかりの頃だった」
記憶は曖昧だ。でも、少しだけ、胸の奥が反応する。
「最初は二人とも全然仲良くなかった」
「そうなんですか」
「お前が勝手に話しかけてただけだ」
「……」
それは何となく想像できた。
真守は苦笑する。
師範も笑った。
「でも、そのうちな」
少しだけ声が柔らかくなる。
「ウチの道場に、二人で来るようになった」
道場帰り、公園、駄菓子屋。そんな景色があったのかもしれない。
真守には思い出せない。けれど、そこに確かに自分がいた気がした。
「不思議なもんだ」
師範が呟く。
「お前といる時だけ、あの子は笑ってた」
「……」
胸の奥が小さく揺れる。
「道場でも、学校でもな」
師範は続ける。
「それまではずっと下向いてたのにな」
真守は何も言えなかった。
「……今も変わらん」
ぽつりと落ちた言葉。
「……え?」
「お前の話をする時だけだ」
静かな声だった。
「楽しそうに笑う」
「……」
言葉が出ない。
湯呑を持つ手に力が入る。
「辛いことがあっても、嫌なことがあっても、お前の話になると笑う」
師範は淡々と話しているだけだった。
けれど、真守の胸の奥には重く残った。
白ヶ崎とは違う、真希那とも違う、祇園とも違う。赤坂唯という人間が、自分をどれだけ大切に思っていたのか。
今さら少しずつ理解してしまう。
「……そうなんですか」
それしか言えなかった。
「まあ」
師範は肩をすくめる。
「赤坂はそういうやつだ」
簡単に言う。でも、その一言には、長い時間が詰まっている気がした。
静かな沈黙が落ちる。
風が吹き、窓の外で葉が揺れる。その音だけが聞こえた。
しばらくして、師範がふと口を開く。
「……気になるなら行ってみろ」
「どこにですか」
「児童養護施設だ」
真守は首を傾げる。
「なんで施設に」
少しだけ間が空いた。
そして。
「……あの子はな」
師範が静かに言う。
「小さい頃に親を亡くしてる」
「……」
言葉が止まる。
今まで聞いたこともなかった。
「それからずっと施設で育ってる」
淡々とした声だった。
でも、その事実だけで十分だった。
「……そうですか」
小さく返す。
胸の奥が妙に重い。
知らなかった。
本当に何も知らなかった。
「今でも顔を出してるはずだ」
師範は言う。
「行けば何か分かるかもしれん」
それだけだった。けれど、真守の中で、確かに何かが動き始めていた。
赤坂唯。
ずっと近くにいたはずなのに、まだ知らないことが、こんなにもある。
湯呑の中の茶は、もう少しだけ冷めていた。
それでも真守は、しばらくその場から動けなかった。




