184話 俺×道場=あの頃に戻ったみたいです。
「……久しぶりだな、楽々浦」
静かな声だった。
道場の中に響いたその声は不思議と懐かしく、耳に届いた瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。
「……」
名前を呼ばれるが、反応が一瞬遅れる。記憶が追いつかない。
目の前の人物を知っているはずなのに、その名前だけがどうしても出てこない。霧がかかったみたいに、そこだけ曖昧だった。
それでも——
「……久しぶり、です」
自然と、言葉が出た。
頭では思い出せないのに、身体のどこかが覚えている。そんな感覚だった。
「はは、敬語か」
男は小さく笑う。
その笑い方はどこか優しくて、昔と何も変わっていないように見えた。
「まあ無理もないか」
そう言いながら近づいてくる。
畳を踏む音が静かに響く。
「少し見ないうちに、大きくなったな」
その言葉に、真守は少しだけ苦笑した。
「……ああ、はい」
何を返せばいいのか分からない。それでも、不思議と居心地は悪くなかった。まるで親戚の家に久しぶりに来たような、そんな空気だった。
「赤坂から聞いてるぞ」
その名前が出た瞬間、意識が引っ張られる。
「……」
「事故のことも、記憶のこともな」
さらりと言われる。
隠す必要はないらしい。むしろ、既に全部知っている側の人間なのだろう。
「……そうですか」
「あと、高校での話もな」
口元が少しだけ緩む。
「楽しそうにやってるらしいじゃないか」
真守は肩をすくめた。
「……まあ、それなりに」
楽しいことばかりじゃない。事件もあった、悩みもある、人間関係だって複雑だ。
けれど——。
それでも否定するほど悪い日々ではなかった。気づけばいつも自分の周りには誰か居てくれていた。一人ではない、それだけで十分だった。
「……そうか」
師範は静かに頷いた。
「それならいい」
短い言葉だった。けれど、その言葉には妙な安心感があった。まるで昔から見守ってくれていた人に言われたような、そんな温かさだった。
しばらく沈黙が落ちる。
窓から差し込む朝の光が畳を照らしていた。
道場独特の木の匂い、磨かれた床、壁に並ぶ賞状や写真。それらを眺めていると、本当に昔に戻ったような気分になる。
すると。
「楽々浦」
師範が口を開いた。
「……はい」
「ちょっと相手してみろ」
「……え?」
「手合わせだ」
迷いのない言葉だった。
「……いきなりですね」
「いきなりでいい」
即答だった。
「腕が落ちてないか見てやる」
真守は思わず苦笑する。だが、嫌ではなかった。
むしろ——。
心のどこかで少しだけ楽しみにしている自分がいた。
「……分かりました」
小さく頷く。
バッグを端に置き、靴下を脱ぐ。そして畳の中央へ向かった。
足の裏に伝わる感触、それだけで妙な懐かしさが込み上げる。
「……」
構える。
その瞬間だった、頭で考えるより先に身体が動く。
自然に重心が落ちる。両足の位置、拳の高さ、視線の置き方、全部が勝手に決まっていく。
「ほう」
師範が感心したように声を漏らした。
「体は覚えてるみたいだな」
「……みたいですね」
自分でも驚いていた。記憶は曖昧なのに、身体だけは全部知っている。
「行くぞ」
次の瞬間、一歩で距離が消える。
速い。
思わず目を見開く。
それでも——。
見えていた。身体が反応する。受ける、流す、足を動かす、踏み込む、考えていない。全部、本能だった。
「……っ」
風を切る音が耳元を抜ける。
「悪くない」
師範が言う。
「だが——」
次の瞬間。
視界が揺れた。
「甘い」
低い声。
そして。
「っ……!」
一気に崩される。
何が起きたのか分からない。気付けば体勢が流されていた。
慌てて踏みとどめ、畳を強く踏みしめる。
「……」
呼吸が少し乱れる。
「やるじゃないか」
師範は変わらず落ち着いていた。
「鈍ってない」
「……どうも」
短く返す。けれど違和感が残る。
動けている、反応もできている。なのに、どこか噛み合っていない。
昔はもっと自然だった気がする、そんな感覚だけが残る。
もう一度踏み込む。今度は深く間合いに入る。拳を伸ばす。
入った、そう思った瞬間。
「……そこだ」
師範が動く。
本当に僅かだった。
最小限の動き。
それだけで。
「っ……!」
再び体勢が崩される。
畳に手をつく。乾いた音が響き、道場の中が静かになる。聞こえるのは自分の呼吸だけ。
肩が上下する。心臓が速く脈打っている。
「……立て」
師範が言う。
真守はゆっくり立ち上がった。
視線が合う。
「……腕は落ちてない」
その言葉に少しだけ力が抜けた。
「……でも」
続く言葉が空気を変える。
「何かが違う」
その一言だけで十分だった。真守自身も感じていたからだ。
「……違う、ですか」
「ああ」
師範は頷く。
少し考えるように顎に手を当てる。
「うまく言葉にはできん」
それから真守を見る。
まっすぐに。
「……とにかく、迷いがある」
「……」
胸の奥が小さく揺れた。
図星だった。
白ヶ崎、祇園、赤坂、生徒会、記憶、未来。考えることは山ほどある。
その全部が無意識に身体へ出ているのかもしれない。
「……迷い」
真守は呟く。
言葉が胸の中に沈んでいく。
「まあいい」
師範が肩を回した。
「急に全部戻るわけじゃない」
朝日が差し込む。その光の中で師範は笑った。
「ゆっくりでいい」
その言葉に、少しだけ救われた気がした。
「……赤坂のこと、覚えてるか」
ふと聞かれる。
真守は考える。
だが——。
「……それが、全く」
正直に答えた。
「……そうか」
師範は小さく頷く。
驚いた様子はない。もうそれは、予想していたような反応だった。
「今でも、よく来てるぞ」
「……え?」
「子供たちに教えてる」
その言葉に驚く。
「でも、最初はな」
師範が笑う。
「全然ダメだった」
「……」
想像できなかった。
あの赤坂が。
「よく転んでた」
「ふっ……」
思わず笑ってしまう。
確かにありそうだった。
「でもな」
師範の声が少し変わる。
「誰よりも続けた」
静かな言葉だった。
けれど重みがある。
「……そうなんですか」
「ああ」
迷いなく頷く。
「誰よりも泣いて、誰よりも悔しがって、それでも毎回来た」
師範は遠くを見るような目をした。
「……お前が来なくなった後もな」
その一言だけが、胸に残る。
何か大事なことに繋がりそうなのに。
まだ手が届かない。
「……今日はこのくらいにしとくか」
師範が言った。
窓の外を見ると、いつの間にか日が高くなっている。思った以上に時間が経っていたらしい。
「……はい」
真守は頷いた。
「……また手合わせしよう、楽々浦」
変わらない調子だった。
昔と同じように。
「……はい」
自然と返事が出る。
そして真守は知らない。
この道場で聞くことになる話が、赤坂唯という少女と、自分の過去を大きく繋ぐことになるのを。




