183話 俺×忘れ物=騒がしく始まりました。
——ピンポーン。
ぼんやりとした意識の中で、インターホンの音が鳴る。
夢と現実の境目を漂っていた思考が、わずかに浮上した。
まだ眠い。
布団の温もりが気持ちよくて、できることならもう少しだけこのままでいたかった。
窓の外は薄く明るくなり始めている。朝ではあるけれど、休日の朝としては明らかに早い。
——ピンポーン。
——ピンポーン。
——ピンポーン。
「……」
しつこい。
しかも一回ごとに間隔が短くなっている気がする。
誰だよ。
宅配にしては粘りすぎだった。なんなら、近所迷惑にならないか心配になるレベルだ。
「……ん」
重たい身体を起こす。もちろん、頭はまだ働いていない。欠伸を噛み殺しながら、なんとなくスマホへ手を伸ばした。
画面を点ける。
そして。
「……は?」
一瞬で目が覚めた。
ロック画面を埋め尽くす通知、着信履歴、メッセージ、不在着信、全部、同じ名前だった。
『真希ねぇ』
「……」
スクロールする。
まだ続く、さらに続く。どこまでいくんだこれ、軽く二桁じゃない、下手したら三桁近い。
通知欄が真希那で埋まっている。
もう、それはホラーだった。
「……やば」
昨日のことを思い出す。
実家へ帰り、白ヶ崎と本当の再会をする。道場などの過去の話を聞く。
色々ありすぎて——スマホを完全に放置していた。
「……」
そりゃ怒るかもしれない。いや、怒るだけならまだいい。真希那の場合はもっと面倒だ。
——ピンポーンッ!!
今までで一番大きな音が響く。もう隠す気がない。完全に、すぐそこに来ている。
「……来てるな」
確信する。
これ以上放置したら玄関ごと破壊しかねない勢いだった。
真守は深く息を吐き、覚悟を決める。そして玄関へ向かった。
鍵を開け、ゆっくり扉を開く。
そこにいたのは——
「……」
鬼だった。
いや、正確には姉だった。でも今の表情だけ見れば鬼だ。般若と言われても納得できる。
「まーくん」
低い声。笑顔はなく、目だけが据わっている。
怖い、純粋に怖い。
「なんで連絡返さないの?」
「……」
終わった。
「いや、ごめん。スマホ見てなかった」
慌てて謝る。
その瞬間だった。
「……」
「……え?」
ぽろり、と涙が落ちる。本当に落ちた。これは、演技じゃない。そして、そのまま勢いよく泣き始めた。
「心配したんだから……!」
「……」
怒る流れじゃなかったのか。
予想が外れた。というか、それどころではない。近所の人が通報しそうな勢いで泣いている。
朝っぱらからこれはまずい。
「ごめんって」
とりあえず宥めるために、頭を撫でる。その次に謝る。それでも関係なく泣き続けた。もう、これは完全に詰みだ。
「……とりあえず中入れ」
「……うん……」
しゃくり上げながら頷く。
そのまま家へ上げ、リビングへ向かうと。
「……騒がしいわね」
母親の声が飛んできた。
「……あら」
こちらを見る。
泣いている真希那を見る、真守を見る、そして状況を理解する。
「ああ」
という顔になった。完全に慣れているし、呆れている。
「おかえり」
「ただいま……」
泣きながら返事する真希那。
「朝から元気ね」
「元気じゃないもん!」
「はいはい」
軽く流される。
その温度差がひどかった。それを見た真守は思わず苦笑する。
「で?」
腕を組む。
「なんでこんな朝から来てるの?」
「だって!」
即座に食いつく真希那。
「まーくんが連絡返さないから!」
「それは真守が悪いわね」
「でしょ!?」
即同意。
援軍を得た真希那が勢いを取り戻す。
完全に不利だった。
味方がいない。
「でも」
母親が続ける。
「泣くほどじゃないでしょ」
「あるもん……」
まだ涙目のまま真守を見る。
「心配したんだから……」
その言葉だけは本気だった。
真守は少しだけ視線を逸らす。
「……ごめん」
素直に謝るしかなかった。
その時。
ガチャ。
奥の部屋から扉が開く音がした。
「……騒がしい」
眠そうな声。
寝癖が少し残ったままの白ヶ崎が姿を見せる。そして、空気が止まった。
「……は?」
真希那が固まる。
数秒遅れて理解する。
「……なんでいるの」
ゆっくりと真守へ視線が向く。
嫌な予感しかしない。
「まーくん?」
声が怖い。
笑顔なのに怖い。
「いや、その」
言い訳を考える。
でも間に合わない。
「抜け駆け!?」
爆発した。
家中に響く声。母親が思わず、耳を塞ぐ。
「咲音ちゃんは自分の部屋に戻るって言ってたのに!なんで一緒にいるの!?」
「だから違うって!」
「何が!?」
「……」
詰む。
完全に詰む。
横を見ると、白ヶ崎は小さくため息を吐いていた。
「……朝から元気ね」
呆れたような声。
「元気じゃない!」
即答。
「そう」
白ヶ崎は軽く流す。
温度差が酷い。
結局。
その後しばらく真希那を落ち着かせるのに時間がかかった。
なんとか真希那を落ち着かせた頃には、すっかり朝の静けさは消えていた。さっきまでの穏やかな実家の空気が嘘みたいだ。
「……はぁ」
真守は小さく息を吐く。
疲れた。まだ何もしていないのに、もう一日分くらいの体力を使った気がする。
「納得してないからね」
ソファに座った真希那が頬を膨らませる。
「何をだよ」
「全部」
雑だった。
だが真希那らしい。
「咲音ちゃんも」
「何?」
白ヶ崎が視線を向ける。
「夜、何してたの?」
「寝てた」
即答。
「怪しい」
「怪しくない」
「怪しい」
「怪しくない」
小学生みたいなやり取りが始まる。
真守は頭を抱えた。
母親はそんな様子を見ながら楽しそうに笑っている。完全に面白がっていた。
「仲良しねぇ」
「仲良くない!」
真希那が即否定する。
「そこまで否定しなくてもいいだろ……」
思わず真守が呟く。
すると今度は白ヶ崎が小さく吹き出した。
「ふふ」
「なんで笑うの」
「別に」
少しだけ機嫌が良さそうだった。
昨日の夜、初恋の記憶、病院の写真。色んなことがあった。それでも今こうして笑っている。その姿を見ると、少しだけ安心する。
「……」
真守は視線を落とした。
今日やるべきことを思い出す。
空手道場。全部が繋がっている気がする。だからこそ、行かなければならない。
「……とりあえず」
真守は立ち上がった。
三人の視線が集まる。
「俺、ちょっと出てくる」
「どこに?」
真希那がすぐに反応する。
「……道場」
「道場?」
「昔、通ってたところ」
「え?」
真希那が首を傾げる。
「まーくん思い出したの?」
「いや、全て思い出したわけじゃない」
記憶が曖昧だが、身体が覚えている感覚があるのは間違いない。それが気になっている。
「一人で?」
真希那が聞く。
「一人で」
「私も行く」
「いや」
即答する。
「なんで!?」
「なんでじゃない」
思わず苦笑する。
「ちょっと、一人で確認したいことがあるんだよ」
真希那が不満そうに唇を尖らせる。納得していない顔だ。だが、それ以上は言わなかった。
代わりに。
「……気を付けてね」
小さくそう言った。
真守は少し驚く。
「おう」
短く返す。
すると今度は白ヶ崎が口を開いた。
「……無理しないで」
静かな声だった。
「何か分かったら連絡して」
「……ああ」
自然に頷く。その言葉だけで十分だった。
母親は何も言わない。ただ静かに真守を見ている。まるで、この流れを予想していたみたいに。
「行ってきます」
玄関へ行き、靴を履く。そのまま、ドアノブに手をかける。その瞬間。
「まーくん」
真希那の声。
振り返る。
「ちゃんと帰ってくるんだよ」
「……」
一瞬だけ言葉に詰まる。
それから。
「当たり前だろ」
そう言って笑った。
玄関の扉を開く。
外の空気はひんやりとしていた。朝特有の静けさが街を包んでいる。さっきまでの騒がしさが嘘みたいだった。
深く息を吸う。冷たい空気が肺に入り、頭が少しだけ冴える。
「……」
歩き出す。
道はなんとなく覚えている。完全じゃないが、迷う感じはなかった。身体が覚えている、そんな感覚だった。
住宅街を抜ける。昔より少し景色は変わっていた。新しい家が建ち、知らない店も増えている。
それでも、曲がる角や、見慣れた公園は残っていた。
「……懐かしいな」
自然と呟く。
記憶が少しずつ浮かんでは消える。
子供の頃、走り回った道、転んで怪我をした場所、友達と遊んだ記憶。
全て断片的だった。それでも、確かに残っている。
しばらく歩いた頃だった。
古びた門が見えてくる。年季の入った木の看板。昔とほとんど変わっていない様子だった。
「……ここか」
胸の奥が少しだけ熱くなる。
懐かしい。
その感情が最初に来た。理由は分からない。でも、ここには何かがあると、そう思えた。
ギィ……
門を開く。
木が軋む音、それすら懐かしく感じる。
中へ足を踏み入れると、木の匂い、畳の香り、静かな空気、全てが遠い記憶を刺激してくる。
「……」
胸の奥がじんわりと温かくなる。帰ってきた、そんな感覚だった。
その時。
「おや」
後ろから声が聞こえた。
振り返る。
一人の男性が立っていた。年配だが背筋は真っ直ぐだった。穏やかな目、落ち着いた雰囲気。確かに、見覚えがある。でも、名前が出てこない。
「……」
真守が黙っていると、その人は小さく笑った。
「久しぶりだな」
優しい声だった。
「楽々浦」
名前を呼ばれる。
その瞬間、胸の奥で何かが揺れた。思い出せそうで、思い出せない、もどかしい感覚。
それでも。
「……久しぶりです」
自然とそう返していた。
そして男は、どこか懐かしそうに目を細めた。
「大きくなったな」
そう呟いた。




