181話 俺×約束=重さが違います。
「……ずっと、会いたかったよ」
白ヶ崎の声が、静かな部屋に溶けていった。
ぽろり、と零れた涙が頬を伝う。泣いているはずなのに、不思議と悲しそうには見えなかった。
むしろ——
長い長い時間をかけてようやく、なにかに辿り着いた人の顔だった。
「真守くん」
名前を呼ばれる。たったそれだけなのに、胸の奥がざわつく。
前から呼ばれていたはずなのに、今まで何度も聞いていたはずなのに、今日のその呼び方だけは、少し違って聞こえた。
「……」
何か言わなきゃいけない。そう思うが、言葉が出ない。
頭の中では、さっき見た写真と、断片的に戻った記憶がゆっくりと繋がっていた。
病院の廊下、白い包帯、窓際に立つ女の子。
そして——
自分を見て、少しだけ笑った顔。
「……ごめん」
ようやく出た言葉は、それだった。
白ヶ崎が小さく首を傾げる。
「全部思い出せたわけじゃなくて」
正直に言う。
嘘はつきたくなかった。
「……でも」
写真を見る。
少し色褪せた一枚の写真。そこにいる二人は、今よりずっと幼い。
「なんとなく分かる」
静かに続ける。
「俺、この子のこと好きだったんだろうなって」
「……」
白ヶ崎の肩が小さく揺れた。
笑ったのか、泣いたのか、そのどちらなのか分からないくらい、微かな反応だった。
「……あの時の子なんだよな」
確かめるように言う。
白ヶ崎はゆっくりと頷いた。
「うん」
それだけ。
それだけなのに。
胸の奥で何かが静かに落ち着いていく。
ずっと引っかかっていた欠片が、ようやく正しい場所に戻ったような感覚だった。
「……そっか」
自然と笑みが漏れる。
すると白ヶ崎も、少しだけ笑った。それは学校で見せる笑顔とは違った。
もっと柔らかくて、もっと幼くて、写真の中の女の子が、そのまま大人になったような笑顔だった。
「……あのさ」
白ヶ崎が小さく口を開く。
「覚えてる?」
「何を?」
「最後の日」
視線を落としながら続ける。
「別れる時」
「……」
記憶を探る。
ぼんやりとした景色、夕方の病院、帰り際、写真を撮った後。
そして――
「……ああ」
思い出した。
「言ったな」
思わず苦笑する。
「何も考えてなかったと思うけど」
「うん」
白ヶ崎が小さく頷く。
その表情が少しだけ緊張していることに気付く。
「……また会えたら」
真守はゆっくりと言葉にする。
「結婚しようって」
部屋が静かになる。
時計の音だけが聞こえた。カチ、カチ、と、やけに大きく。
「……」
白ヶ崎は何も言わない。ただ唇を少しだけ噛んでいた。
「……子供だったしさ」
真守は頭を掻く。
「多分、深い意味なかったんだと思う」
恥ずかしくなって視線を逸らす。
「また会えたらいいな〜、みたいな感覚で——」
そこまで言って止まる。
ずっと、まっすぐ白ヶ崎が見ていた。
「……うん」
小さく返事をする。
その声は優しかった。優しかったけれど、少しだけ寂しそうだった。
「……覚えてたんだな」
真守が言う。
「そんな昔のこと」
「……ずっと」
白ヶ崎は即答した。
迷いなく、呼吸をするみたいに自然に。
「忘れたことなかった」
その言葉に、真守は返事ができなかった。
重さが違った。
自分の中では思い出の一つだったもの。けれど白ヶ崎にとっては違う。
ずっと消えなかった、ずっと残っていた。十年近く、ずっと。
「……すごいな」
ぽつりと漏れる。
「俺にはできないかもしれない」
「……そんなことない」
白ヶ崎が小さく首を振る。
「気付いてなかっただけで」
そう言って。
少しだけ笑った。
「真守くんも、ちゃんと覚えてた」
「……」
否定できなかった。
確かに忘れていた。でも完全に消えていたわけじゃない。
あの白い髪を見た時、あの写真を見た時、胸が痛くなった。
それはきっと——
どこかに、ずっと残っていたからだ。
「……」
窓の外で風が吹き、カーテンが揺れる。夕方が近づき、柔らかな光が部屋の中へ差し込んでいた。
二人は何も言わない。でも不思議と気まずくなかった。
むしろ、この沈黙を壊したくなかった。
「……」
白ヶ崎が少しだけ近付く。
肩が触れるか触れないかくらい。
本当に少しだけ。
けれど、その距離が妙に意識される。
「……」
真守は何も言わない。白ヶ崎も何も言わない。ただ同じ写真を見る。同じ過去を見る。
十年前、病院で出会った二人。その頃は、こんな未来になるなんて想像もしていなかった。
「……不思議だな」
真守が呟く。
「何が?」
「また会えたこと」
素直な言葉だった。
「……そうだね」
白ヶ崎も静かに頷く。
そして、ほんの少しだけ、本当に少しだけ。真守の肩へ身体を預けた。
「……」
何も言わない。
でも、その体温だけで十分だった。
長い時間をかけて辿り着いた答えが、今、確かにここにある気がした。
——ガチャッ。
玄関の開く音が響く。
「あらー!重かったー!」
母親の声。
一瞬で現実に引き戻される。
白ヶ崎が慌てて離れ、真守も反射的に姿勢を正す。
目が合う。
そして、どちらからともなく苦笑した。
「……行くか」
「……うん」
短いやり取り。
それだけで十分だった。
リビングへ向かう。
隣を歩く白ヶ崎との距離は、ほんの少しだけ近かった。
そして真守はまだ知らない。
この約束を、白ヶ崎がどれほど大切に抱え続けてきたのかを。
今はまだ——知らなかった。




