179話 俺×初恋=辿り着きました。
指先に触れた感触は、やけに軽かった。
けれど——それを持ち上げた瞬間、時間がゆっくりと動き出す。
「……これ」
白ヶ崎の声は、なかった。ただ、その気配が変わったのは分かる。
視線が、真守の手元に強く吸い寄せられている。
真守は、ゆっくりとその写真を見下ろす。
そこに写っていたのは——
病院だった。
白い壁、無機質なベッド、窓から差し込む光。
そして、その前に立っている二人。
一人は——幼い頃の自分。
怪我もなく、元気そうに笑っている。
そしてもう一人は——
頭に包帯を巻いた、女の子。
写真の中で少しだけ困ったように笑っている。
知らないはずなのに、見覚えがある。知らないはずなのに、懐かしい。
矛盾した感覚が胸の中を駆け巡る。
「……」
じっと見つめる。
すると——ドクン、と心臓が大きく鳴った。
視界が揺れる。けれど、痛みは来なかった。今までなら、思い出そうとした瞬間に頭痛が襲ってきた。
記憶に触れようとするたびに、何かに拒絶されるように。
でも今回は違う。止まらず、そのまま流れ込んでくる。
⸻
あの日の空気は、少しだけ冷たかった。
小学校三年生だった頃の俺は、とにかく落ち着きがなかった。
外で遊んでは、転んで怪我をして、怒られて。それでも懲りずにまた走り回る。そんな子供だった。
「痛ってぇ……」
その日も、例外じゃなかった。
無茶をして、少し大きな怪我をした。腕の骨にヒビが入る程度の怪我。
大したことはない——そう思っていた。
でも、親はそう思ってくれなかった。
「しばらく通院ね」
そう言われて、病院に通うことになった。
「……つまんねぇ」
正直な感想だった。
病院は退屈だった。同じ場所に座って、同じ匂いの中で、順番を待つ。それが、どうしても耐えられなかった。
だから——
俺は、よく院内を歩き回っていた。
「……」
ある日。ふと、目に入った。
窓際に、一人の女の子が、立っていた。
頭には包帯。
外を、じっと見ている。その背中が、妙に静かだった。
「……なぁ、俺、真守って言うんだけど」
気づけば、声をかけていた。
女の子が振り向く。
その目が——
鋭く、そして、睨まれる。
そのまま、何も言わずに走って逃げていった。
「……え?」
呆気にとられる。そして、すぐに悔しくなる。
「なんだよ、あいつ……」
ただ話しかけただけなのに。
その日からだった。病院に行くたびに、その女の子を探すようになったのは。
見つけては、話しかける。そして、逃げられる。それでも、また話しかける。そんなことを、繰り返した。
「……また来たの?」
ある日、初めて言葉が返ってきた。
「おう」
嬉しくて、少しだけ声が弾む。
「暇なんだよ、ここ」
「……」
女の子は、少しだけ呆れたような顔をする。それでも、その場からは逃げなかった。
「……あんた、怪我?」
「ああ、腕」
軽く見せる。
「すぐ治るって」
「……そう」
短い返事。
それでも、その日から少しずつ変わった。完全に逃げることはなくなった。そして少しだけ、話すようになった。
「……学校は?」
俺が聞く。
「……行ってない」
女の子は窓の外を見たまま答える。
「なんで?」
少しだけ間があって——
「……いじめられてるから」
「……」
言葉が詰まる。
「容姿のことで」
淡々とした声だった。
「それで、一人ぼっちで……」
少しだけ言葉が揺れる。
「……嫌になって、飛び降りた」
「……は?」
思わず声が出る。
「校舎の二階から」
「……」
何も言えなかった。ただ、目の前の女の子を見ることしかできなかった。
「……バカみたいでしょ」
小さく笑う。
「……いや」
首を振る。
「……そんなことねぇよ」
自然と、言葉が出ていた。
「容姿とか、関係ねぇし」
「……」
女の子がこちらを見る。
「これ見ても、言う?」
そう言って、ゆっくりと頭の包帯に手をかける。
「……」
止める間もなく、それが外される。
現れたのは——
真っ白な髪だった。
光を受けて、淡く透けるような白。
「……これ、生まれつき」
女の子が言う。
「病気で、この色なの」
「……」
じっと見つめる。
言葉を探す。
そして——
「……綺麗だな」
自然と出た。
「……え?」
女の子が、驚いたように目を見開く。
「すげぇ、綺麗」
もう一度、言う。
「……」
その頬が、ほんの少し赤くなる。
「……バカじゃないの」
小さく呟く。
けれど、その声はさっきより柔らかかった。
それから——
病院に行くたびに、その子と話した。
他愛もない話、どうでもいい話、それでも、楽しかった。
気づけば——
その子に会うのが、楽しみになっていた。
「……」
今思えば、それが初恋だったんだと思う。
⸻
「もう来なくていいですね」
医者にそう言われた日。
怪我は順調に治っていた。
「……そっか」
嬉しいはずなのに、どこか寂しかった。
「……あのさ」
最後の日。
「写真、撮らない?」
そう言った。
「……なんで」
「思い出」
それだけ。
女の子は少しだけ迷って——
「……いいよ」
そう言ってくれた。
「そしたら、この写真は次会う時までに大切に保管しとくよ!」
写真を一緒に撮れて、テンションが高くなっているのが自分でもわかった。
「はいはい、覚えてたらね」
そこで記憶が止まる。
そして、これがこの写真の思い出だった。
⸻
「……」
意識が、現在に戻る。
手の中の写真を見る。
「……懐かしいな」
小さく呟く。
「この子……俺の初恋だったんだ」
白ヶ崎は何も言わない。
ただ静かに聞いている。
「そういえば」
真守は写真を見ながら思い出そうとする。
「あの子の病気の名前……なんだっけな」
あと少し、喉まで出かかっている。
白い髪。
白い肌。
白い睫毛。
そして、白ヶ崎と重なる雰囲気。
「……」
違和感が大きくなる。
白ヶ崎が静かに口を開く。
「アルビノ」
その一言。
「——あ」
全部が繋がる。
「それだ」
思わず立ち上がる。
「そうだ……アルビノだ」
記憶の欠片がはまっていく。
一つ、また一つ。
「よく分かったな、咲音——」
そこまで言いかけて。
止まる。
「……」
写真を見て、白ヶ崎を見る。
重なる、同じ白、同じ空気。
同じ——
「……まさか」
言葉が漏れる。
白ヶ崎は静かにポケットへ手を入れた。
取り出したのは生徒手帳。それを開く。
そして。
一枚の写真を取り出した。
真守の呼吸が止まる。
同じだった。構図も、場所も、写っている二人も、全部。
手の中の写真と同じだった。
「……なんで」
声が出ない。
白ヶ崎は静かに笑った。
でも、その目からは涙が溢れていた。ぽろり、ぽろりと、長い時間を越えてきた涙だった。
「……ずっと」
震える声。
「ずっと会いたかった」
写真を抱きしめるように握る。
そして、何年も前から言いたかった言葉をようやく口にする。
「……真守くん」
その呼び方は、病院の窓際で交わした約束の続きだった。




