177話 俺×決意=一人じゃないと知った日です。
部屋は、いつもより静かだった。普段ならどこかに誰かの気配がある。
隣の部屋から聞こえてくる物音、廊下を歩く足音、真希那の騒がしい声。そういうものが自然と混ざっているはずなのに、今日は妙に静かだった。
「……」
真守はベッドの端に腰を下ろしたまま、しばらく動かなかった。
白ヶ崎は文化祭の最中で、真希那も休みを利用して校内にいる。
今、この部屋には自分しかいない。それが妙に落ち着いて、少しだけ寂しかった。
「……ちょうどいいか」
小さく呟く。
誰に聞かせるでもない言葉だった。
立ち上がり、クローゼットを開く。
バッグを取り出す。
必要な物だけでいい。
財布。
スマホの充電器。
身分証。
一つずつ確認しながらバッグへ入れていく。ただそれだけの作業なのに、なぜか手が止まる。
頭の中に浮かぶのは別のことばかりだった。
キャンプファイヤー、揺れる炎、白ヶ崎の横顔、近すぎた距離。
あと少しで触れそうだった、あの瞬間。
「……」
手が止まり、胸の奥が少しだけ熱くなる。
あの時、自分は何を考えていたんだろう。
もし、あのまま離れなかったら。もし、祇園のことを優先しなかったら。
そんな考えが浮かびかけて――
「……違う」
首を振る。
今はそんなことを考えている場合じゃない。
祇園、赤坂、会長。そして、自分自身の過去。全部がまだ終わっていない。
だから。
「……行かなきゃ」
小さく息を吐く。
バッグのファスナーを閉めた。それからスマホを取り出す。
画面を開く。
メッセージアプリ。
送る相手は二人だった。
白ヶ崎。
真希那。
少し迷ってから文字を打つ。
【少し実家に帰る。心配しなくていい】
短い文章。
送信ボタンを押すだけなのに、指が止まる。
白ヶ崎の顔が浮かぶ。真希那の顔も浮かぶ。
絶対に怒る。たぶん、かなり怒る。
それでも。
「……これでいい」
そう自分に言い聞かせる。
本当は良くないと分かっていても、送信ボタンを押した。
既読がつく前に画面を閉じる。見たら、きっと迷うから。
バッグを肩にかけ、そして部屋を出た。
廊下は静かだった。玄関へ向かう足音だけが響く。
一歩進むたびに、本当に行くんだという実感が湧いてくる。
ドアノブに手をかけ、そのまま扉を開いた。
冷たい空気が流れ込む。
そして。
「……」
目の前に人影があった。
思考が止まる。
誰だ。
そう思った次の瞬間、見覚えのある銀髪が揺れた。
「……咲音?」
思わず名前が出る。
白ヶ崎だった。肩で息をしていて、額には汗。髪も少し乱れている。
制服の上から羽織ったカーディガンも少し崩れていた。どう見ても全力で走ってきた後だった。
「……」
言葉が出ない。
メッセージを送ってから、まだ十分も経っていない。
つまり、通知を見た瞬間に飛び出してきたということだ。
そこまでして、自分を追いかけてきた。
胸の奥が少しだけ痛んだ。
「……行くんでしょ」
白ヶ崎が言う。
息を整えながら、それでも真っ直ぐにこちらを見ている。
「……一人で」
続いた言葉に何も返せなかった。
「……文化祭中だろ」
ようやく絞り出した言葉。
「戻った方がいい」
「嫌」
即答だった。
迷いがなかった。
「……なんでだよ」
問いかける。
白ヶ崎の眉が少しだけ寄った。
「なんで、一人で行こうとするの」
静かな声。だけど、その奥にある感情は重かった。
「……巻き込みたくない」
正直に答える。
「これは俺の問題だから」
白ヶ崎が目を伏せる。
「文化祭も楽しんでほしかったし」
言いながら、自分でも分かる。それは本音であり、逃げでもあった。
沈黙が落ちる。
数秒。
けれど、やけに長く感じた。
「……勝手に決めないで」
ぽつりと白ヶ崎が言った。
「私がどうしたいか、聞いてよ」
言葉が出ない。
何も返せなかった。
「……置いていかないで」
その一言。
大きな声じゃない。強い言葉でもない。だけど、胸の奥に真っ直ぐ届いた。
真守は小さく息を飲む。
「……なんで、そこまでしてくれるんだよ」
自然と出た疑問だった。
白ヶ崎は少しだけ目を閉じる。それからゆっくりと開いた。
「……真守くん」
名前を呼ばれる。
「昔のこと、思い出そうとしてるでしょ」
図星だった。
言葉が出ない。
「一人で苦しむ真守くんなんて」
白ヶ崎は静かに言う。
「考えたくない」
その言葉は強くなかった。
ただ、真っ直ぐだった。
「……だから」
一歩近づく。
「一人で行かせるわけないでしょ」
真守は言葉を失う。
胸の奥が熱くなる。
じわじわと。
どうしようもないくらいに。
「……ごめん」
小さく呟く。
「迷惑ばっかかけて」
白ヶ崎は何も言わなかった。
代わりに、ゆっくりと近づいてくる。
一歩。
また一歩。
逃げる気はなかった。拒む理由もなかった。
気づけば。
白ヶ崎の額が、そっと胸元に触れていた。
柔らかい感触。制服越しに伝わる体温。
自分の心臓の音だけが妙に大きく聞こえる。
「……」
何も言えない。
言葉にした瞬間、壊れてしまいそうだった。
白ヶ崎も何も言わない。ただ、そこにいる。それだけなのに。
一人で抱えていた重さが、少しだけ軽くなる。
「……真守くんにはさ」
小さな声。
「いつも助けてもらってるから」
胸に落ちる。
静かに。
確実に。
「今度は、私の番」
真守はゆっくりと腕を回した。
強く抱きしめるわけじゃない。ただ、そこにいることを確かめるように、そっと。
「……ありがとう」
自然と出た言葉だった。
白ヶ崎は何も言わない。ただ、ほんの少しだけ力を込める。
そのまま時間が流れる。
長いようで短い時間。
このまま続けばいいと思ってしまうほど、穏やかな時間だった。
やがて白ヶ崎が体を離す。
少しだけ名残惜しそうに。
「……行くか」
「……うん」
短いやり取り。それだけで十分だった。
白ヶ崎はそのまま部屋へ戻る。
真守は玄関で待った。
数分後。
戻ってきた白ヶ崎は、もうメイド服ではなかった。
動きやすそうな私服、小さめのバッグ。本当に来るつもりなのだと分かる。
「……早いな」
「こういう時は迷わないの」
あっさりと言う。
「……文化祭、いいのか」
「いいって言ってるでしょ」
少しだけ睨まれる。
けれど、その目は優しかった。
「それに」
白ヶ崎が続ける。
「途中で帰るより、ちゃんと解決してから帰る方がいいから」
静かで、強い言葉だった。
真守は何も言えなかった。
白ヶ崎は靴を履き、振り返る。
「行くよ」
「……ああ」
頷く。
二人で外へ出る。
秋の終わりを感じさせる冷たい空気。遠くからは文化祭の喧騒が聞こえる。
笑い声。
音楽。
拍手。
まだ祭りは続いている。
それなのに、二人の周囲だけ、別の時間が流れているようだった。
「……」
隣を見る。
白ヶ崎がいる。
その事実が、やけに大きかった。
一人で行くはずだった道。一人で背負うはずだった過去。
それなのに。
今は隣に誰かがいる。
「……」
言葉はない。それでも、不思議と空気は途切れなかった。
同じ方向を向いて、同じ目的地へ向かう。それだけで十分だった。
真守は少しだけ空を見上げる。
薄い雲の向こうに、夕方の光が残っている。
「……」
一人じゃない。
その事実が、こんなにも心強いなんて知らなかった。
二人は歩き出す。向かう先は決まっている。
真守の実家。過去の答えが眠る場所へ。
今度は、一人じゃなく。
二人で。




