176話 俺×ズレ=正しさだけが浮いています。
朝の空気は、やけに冷たかった。
まだ人通りも少ない時間帯。音も少なくて、足音だけがやけに響く。
「……」
目の前にあるのは、祇園のいる施設。
来た理由は、はっきりしない。
ただ——
「……来るべきだと思った」
心の中で小さく呟いて、そのまま中へ入る。
受付を済ませ、案内されて廊下を歩く。
以前、来た時よりもどこか静かに感じる。
少しして、目的の部屋の前で足が止まり、軽くノックする。
「どうぞ」
中から、落ち着いた声。
扉を開ける。
「……あら」
祇園が、こちらを見ていた。
「楽々浦くん。こんな朝早くにどうしたの?」
前と同じ、柔らかい声。
けれど——どこか、奥が見えない。
「……少し、顔色良くなってますね」
思わずそう言う。
祇園は少しだけ驚いたように瞬きをして、それから小さく笑った。
「ふふ、ちゃんと見てるのね」
「……前より、元気そうです」
「ええ、おかげさまで」
ゆっくりと頷く。
「まだ本調子とは言えないけど……少しずつ、ね」
無理をしている様子はない。
それが、逆に安心できる。
「……よかったです」
そう言うと、祇園は少しだけ目を細める。
「ありがとう」
短く、優しい声。
「座って」
促されるまま、椅子に腰を下ろす。
少しだけ、空気が落ち着く。
「文化祭、どう?」
祇園が軽く聞いてくる。
「……普通に楽しいです」
「普通に、ね」
小さく笑う。
「楽々浦くんらしい」
「……そうですか」
「ええ。もっと浮かれてもいいのに」
「無理ですよ」
苦笑する。
「見回りばっかりなんで」
「ふふ、それもそうね」
他愛のない会話。それだけで、少しだけ気が緩んだ。
「……」
そして。
ふと、あの言葉を思い出す。
——誰かに指示されてた。
「……祇園先輩」
「うん?」
少しだけ間を置いてから、言う。
「……まだ、誰に指示されたか言ってくれませんか」
「……」
祇園の表情が、わずかに止まる。
ほんの一瞬だけ。けれど、すぐに戻る。
「……なんのこと?」
軽く、首を傾げる。
「……」
分かっているはずなのに。
「……あの時の話です」
そう言っても、祇園は小さく笑うだけだった。
「ふふ、楽々浦くん」
やわらかい声。
「そういうの、無理に聞こうとしない方がいいよ」
「……」
はぐらかされる。それ以上、踏み込ませないように。
真守はそれ以上、追及はしなかった。
聞いても、答えない。そう分かってしまったから。
一度、息を整える。
話を切り替える。
「……最近、生徒会で問題があって」
「へぇ」
祇園が興味深そうに頷く。
「どんな?」
「……赤坂って人なんですけど」
名前を出す。
「……」
祇園は、少しだけ首を傾げた。
「赤坂?」
「……知らないですか」
「名前だけなら」
迷いなく答える。
「でも、それぐらいかな」
自然すぎる反応。
「……そうですか」
小さく返す。
「その子、何かあったの?」
「……少し問題が」
ぼかして言う。
「そう」
それ以上は聞かない。その距離感が、いつも通りだった。
「……」
会話は普通で、何もおかしくない。
それなのに——
「……」
小さな違和感が、残る。
「……祇園先輩」
話題を変える。
「会長って、どんな人でしたか」
「……急ね」
少しだけ笑う。
「どういう意味で?」
「……誰かを嫌ってる、とか」
「……」
祇園は少しだけ視線を上げる。
思い出すように。
「そうね……」
ゆっくりと口を開く。
「少なくとも、私が見ていた限りでは」
一度、言葉を切る。
「露骨に嫌悪感を出してる相手はいなかったわ」
「……」
その瞬間——
思い出す。
初めて会長を見た時、クラス委員の挨拶でのこと。
赤坂の自己紹介で会長の、あの表情。
『まだ君はそんなことを言っているのか……』
呆れた声。ため息。
そして——
睨みつけるような視線。
『そんなんじゃ、生徒会長は務まらない。だから、君には立候補も許さないよ』
あれは——
ただの評価じゃない。
「……」
もっと、個人的なもの。
もっと、強い感情。
祇園の言葉と、噛み合わない。
ゆっくりと息を吐く。
「……そうですか」
それだけ言う。
「ええ」
祇園は穏やかに頷く。
「……どうしたの?」
「いえ」
首を振る。
「……なんでもないです」
「……」
祇園はそれ以上、何も言わなかった。
ただ静かに、こちらを見ている。
真守は立ち上がり、軽く頭を下げる。
「ありがとうございました」
「うん」
祇園は優しく微笑む。
「またいつでも来てね」
「……はい」
短く返し、そのまま部屋を出る。
廊下に出る。
扉が閉まる音が、やけに重く響いた。
「……」
足を止め、さっきの会話を思い返す。
普通だった。
全部、普通だった。
それなのに——
「……ズレてる」
小さく呟く。
祇園の言葉、会長の態度、赤坂の存在。
全部が、少しずつ噛み合っていない。
「……」
ゆっくりと息を吐く。
「……今を見ても、わからないなら」
小さく、言葉がこぼれる。
「……過去を見るしかないか」
答えは、そこにある気がした。
そのまま、静かな廊下を歩き出す。




