175話 俺×蛍火=その優しさは誰かを置いていきます。
キャンプファイヤーの火は、まだ燃えていた。
ぱち、ぱち、と薪が弾ける音、夜空へ舞い上がる火の粉。オレンジ色の光が、校庭に集まった生徒たちの顔をぼんやり照らしている。
笑い声が聞こえる。
音楽も鳴っている。
誰かが手を叩いて、誰かが踊って、誰かが叫ぶように笑っている。
「……」
真守は、その輪の外に立っていた。
熱気が遠い。火の近くにいるはずなのに、妙に寒かった。
さっきまで隣にいた白ヶ崎の姿を思い出す。
近かった距離。
触れそうだった指先。
炎の光を受けて、少しだけ赤く見えた横顔。
「……」
小さく息を吐く。
そのまま、一歩だけ後ろに下がる。この空気から逃げるみたいに。
人混みから少し離れた瞬間だった。
——ぐいっ。
「……っ」
突然、手首を引かれる。
驚いて振り返る。
そこにいたのは——白ヶ崎だった。
「……」
炎を背にして立っている。
揺れる火の光が、銀色の髪を淡く染めていた。
夜風にポニーテールが小さく揺れる。
ほんの少しだけ息が上がっているのは、急いで追いかけてきたからかもしれない。
「……戻るって、言ったじゃん」
小さな声。
でも、はっきり聞こえた。
「……」
真守は、一瞬言葉を失う。
その一言だけで、さっきまでの時間が全部戻ってくる。
手を取った感触。
近かった距離。
触れそうで触れなかった瞬間。
「……ごめん」
気づけば、素直にそう言っていた。
「……」
白ヶ崎は、何も返さない。
ただ、じっとこちらを見ている。
炎の光が、その赤い瞳の中で揺れていた。
「……ちょっと、考え事してて」
言い訳みたいな言葉が出る。
自分でも、曖昧だと思う。
「……」
白ヶ崎の視線が、わずかに揺れる。
何かを言いかけて。
でも、飲み込んで。
そのまま静かに立っている。
「……でも」
真守は、一度言葉を切った。
胸の奥に引っかかっていたものを、そのまま吐き出すみたいに。
「……もう、踊る気分じゃない」
その瞬間。
空気が、少しだけ冷えた気がした。
「……」
白ヶ崎は、すぐには反応しなかった。
ほんの少しだけ視線を落とす。火の光が、その睫毛の影を長く伸ばしていた。
「……そっか」
返事は短い。
いつも通りの声。
なのに——どこか温度が違った。
「……じゃあ」
小さく息を吐いて。
「私も帰る」
「……」
意外だった。
もっと怒るかと思った。
呆れるかと思った。
でも、白ヶ崎はそうしなかった。
「……いいのか」
思わず聞き返す。
「……いいよ」
あっさりした返事。
けれど、その言葉の奥にある感情には、見えないふりをした。
「ちょっと待ってて」
それだけ言って、白ヶ崎は人混みの方へ戻っていく。
真守は、その背中を見ているしかなかった。
「……」
周囲では、まだ盛り上がっている。
誰かが笑っている。誰かが写真を撮っている。火を囲んで踊る輪が、まだ崩れていない。
その中を、白ヶ崎が歩いていく。
白いメイド服姿。
その背中が、人混みの中へ消えていく。
「……」
なんとなく、胸の奥がざわついた。
少しして。
戻ってきた白ヶ崎は、もうメイド服ではなかった。
いつもの制服姿。見慣れたはずなのに、さっきより遠く感じる。
「……行こ」
短く言う。
「……ああ」
それだけ返して、歩き出す。
校内はまだ騒がしかった。
屋台の明かり、スピーカーから流れる音楽、遠くから聞こえる歓声。
それなのに——
二人の間だけ、妙に静かだった。
「……」
並んで歩く。
距離は近い。
肩が触れるほどではない。
でも、離れすぎてもいない。
ちょうどいい距離。
なのに。
さっきより、ずっと遠かった。
「……」
何か言わなきゃいけない気がする。でも、何を言えばいいのか分からない。
沈黙だけが続く。
靴音だけが、夜の校舎に小さく響いていた。
「……」
先に口を開いたのは、真守だった。
ぽつりと。
考えていたことを、そのまま零すみたいに。
赤坂のこと。
処遇のこと。
姿を消したこと。
そして。
「……祇園先輩のところ、行こうと思ってる」
最後に、そう言った。
「……」
白ヶ崎は何も言わない。ただ、静かに聞いている。視線も外さずに。
「……多分、何かある気がして」
自分でも曖昧だと思う。
根拠なんてない。
ただ、引っかかっているだけ。
でも、その違和感を放っておけなかった。
「……」
夜風が吹く。
白ヶ崎の髪が、小さく揺れる。
「……だから、明日からはそっち優先で」
気づけば、全部話していた。自分の中で整理もできていないのに。
「……」
少しだけ間が空く。
白ヶ崎が、ゆっくり息を吐いた。
「……そっか」
小さく呟くような声。
「……真守くんが、そうしたいなら」
否定でも、肯定でもない。
ただ、受け入れる形。
でも——
ほんの少しだけ。
寂しさが混ざっているのが分かった。
「……」
何か言おうとして、やめる。
言葉を探すほど、余計に遠くなる気がした。
そのまま、会話は途切れる。
無言のまま寮へ向かう。
夜道は静かだった。
さっきまでのキャンプファイヤーの音が、遠くでまだ聞こえている。
まるで、別の世界みたいに。
「……」
寮の前に着く。
扉を開けると、すぐに真希那が顔を出した。
「まーく——」
言いかけて、止まる。
空気を読んだみたいに。
「……おかえり」
少しだけ落ち着いた声。
「……ただいま」
短く返す。
白ヶ崎も、小さく「ただいま」と言った。
それ以上、誰も何も言わない。
いつもなら、もっと騒がしいはずなのに。
真希那が抱きついてきたり。
白ヶ崎が呆れたり。
そんなやり取りがあるはずなのに。
今日は、ない。
「……」
真守は、そのまま自分の部屋へ向かう。
廊下を歩く音だけが響く。
「……今日は、一人で寝る」
立ち止まったまま、そう言った。
真希那は、何も言わない。ただ、小さく頷くだけ。
白ヶ崎も、止めなかった。
「……」
部屋に入る。
静かだった。
ベッドも。
机も。
カーテンも。
全部、変わっていない。
なのに、妙に空っぽに感じる。
「……」
ベッドに腰を下ろす。スプリングが、小さく軋んだ。
さっきまでの光景が、頭の中に浮かぶ。
炎の光。
近かった距離。
白ヶ崎の手。
「……」
目を閉じる。
何かを、間違えた気がした。
でも。
何を選んでも、何かは零れる。誰かを優先すれば、誰かが置いていかれる。全部を守るなんて、最初からできない。
ゆっくりと横になる。
カーテンの隙間から、夜の光が少しだけ差し込んでいた。
遠くで、まだ音楽が鳴っている。楽しそうな声も聞こえる。
それなのに。
ここだけ、妙に静かだった。
「……」
考えるのをやめるみたいに、目を閉じる。
そのまま、意識が少しずつ沈んでいく。
⸻
気づけば、朝になっていた。
まだ空が完全には明るくなっていない時間。
薄暗い部屋の中で、真守はゆっくり目を開ける。
「……」
静かだった。
隣に誰もいない。それだけで、少しだけ胸が空く。
「……」
体を起こす。
床が冷たい。
ぼんやりした頭のまま、制服に着替える。
時計を見る。
まだ早い。
寮の中も、ほとんど動いていない時間。
「……」
扉を開ける。
廊下は静まり返っていた。誰の気配もしない。
足音を立てないように、ゆっくり歩く。
真希那の部屋の前を通る。白ヶ崎の部屋の前も。
「……」
止まらない。
止まったら、多分迷う気がした。
玄関を開ける。
朝の空気が、少しだけ冷たい。肌に触れた瞬間、頭が少しだけ冴える。
「……」
振り返らない。
そのまま歩き出す。
向かう先は決まっている。
祇園のいる場所。
理由なんてない。
ただ——
「……」
行かなきゃいけない気がした。
まだ静かな街を、一人で歩いていく。夜が終わりきっていない朝の中を。




