165話 俺×代償=それでも手放せません。
殺伐とした空気の中、それでも部屋は静かだった。
さっきまでぶつかり合っていたはずの感情が、嘘みたいに消えていた。
その中心で——
真守が、倒れていた。
「……っ」
息が詰まる。
頭に残っている感触が、遅れて現実を突きつけてくる。
視線を落とす。
床に転がっているのは、金属製のスタンド。
奏が振り下ろしたものだった。
「……なんで」
喉の奥から、かすれた声が漏れる。
「……なんで、庇うの」
返事はない。
真守は動かない。その事実だけが、やけに重くのしかかる。
「……」
一歩、近づく。
膝をつき、手を伸ばす。けれど、その指先は頬に触れる直前で止まった。
怖い。
その感情に、ようやく気づく。
「……起きて」
小さく言う。
「……ねえ、起きてよ」
それでも、反応はない。
その沈黙を、低い声が切り裂く。
「……やりすぎだよ」
振り返る。
縛られたままの葵が、こちらを睨んでいた。
弱さはもうない。
はっきりとした意思だけが残っている。
「……なんで、そこまでやるの」
「……あんたが言う?」
静かに返す。
「何も分かってないくせに」
立ち上がる。
距離を詰める。
「……分かってるよ」
葵は、息を整えながら言う。
「お姉ちゃんが、ずっと我慢してたことくらい」
「……は?」
空気が変わる。
「分かってるって?」
口元が歪む。
「何を?」
「……」
「言ってみなよ」
「……全部、自分が引き受けてたんでしょ」
ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「嫌なことも、面倒なことも」
「……」
「私が傷つかないように——」
「やめろ」
低く、鋭く遮る。
「それ以上言うな」
声が揺れる。
抑えきれない何かが滲んでいる。
「……でも、それは」
葵は止まらない。
「お姉ちゃんが選んだことでしょ」
その瞬間——
「……っ!!」
空気が弾けた。
「ふざけんなよ」
吐き出すような声だった。
「選んだ?」
一歩、踏み込む。
「それしかなかっただけだろ」
「……」
「分かってて言ってんの?」
さらに距離を詰める。
「泣けばいいのはあんたで、守られるのもあんたで、私はその横で“ちゃんとしたお姉ちゃん”やってればいい」
言葉が鋭くなる。
「それがどれだけ、あんたが楽か分かる?」
「……違う」
それでも葵は言う。
「そんなつもりじゃ——」
「知ってるよ!!」
強く被せる。
「分かってるって言ってんじゃん!!」
声が響く。
「でも結果そうなんだよ!!」
息が荒い。
止まらない。
「友達も」
一瞬、詰まる。
それでも——
「……好きな人も」
その言葉が落ちる。
「……」
「やっと、私の番だと思ったのに」
静かに言う。
その一言で、空気が沈む。
「……」
葵は何も返せない。
「……でも」
それでも、絞り出す。
「それでも」
視線を逸らさない。
「違う」
はっきりと、言い切る。
「……」
「こんなの、お姉ちゃんじゃない」
一歩も引かない。
その一言が静かに落ち、空気が止まる。
ほんの一瞬、何も動かない時間が生まれる。
「……」
奏の表情から、色が抜ける。
何かが、そこで途切れたように。
「……はは」
乾いた笑いが漏れる。
「……そっか」
小さく頷く。
「やっぱり、そういうこと言うんだ」
視線が、ゆっくりと下に落ちる。
倒れている真守へ。
「……」
数秒、何も言わない。
それから——
ふらりと、近づく。葵ではなく、真守の方へ。
「……」
しゃがみ込み、じっと、その顔を見つめる。
「……なんで」
ぽつりと、落ちる声。
「なんで、私じゃないの?」
答えはない。
「……」
指先が、わずかに震える。
それでも、今度は止まらない。そっと、頬に触れる。温度を確かめるみたいに。
「……」
呼吸はある。
それを確認して、ほんの少しだけ息が抜ける。
「……好き」
小さく呟く。
「本当に、好き」
そのまま、顔を近づける。
距離が縮まる。
呼吸が混ざるほど近く。
「……」
ほんの一瞬、迷う。
けれど——
そのまま、唇を重ねた。逃げるようではなく、確かめるように。静かに、押し当てる。
短い時間。
それでも、はっきりとしたキスだった。
「……」
ゆっくりと離れる。
視線は、まだ戻らない真守の顔に落ちる。
「……やっと、触れた」
小さく、呟く。
その声には、満足とも後悔ともつかない感情が混ざっていた。
背後で、葵が何か言いかける気配がする。
けれど——
奏は振り返らない。
ただ一度だけ、真守を見下ろして。何も言わずに、視線を逸らした。




