164話 俺×綻び=それは最初から違っていました。
空気が、重く沈んでいた。
さっきまでの激しさが嘘みたいに、部屋の中は静まり返っている。
けれど、それは落ち着いた静けさじゃない。何かが決定的に壊れたあとの、戻らない種類の沈黙だった。
目の前には、縛られたままの葵。
その少し前に立つ、葵の姿をした——奏。
「……で?」
奏が、軽く首を傾ける。
「そこまで分かってて、これ以上聞きたいの?」
「……」
少しだけ間を置く。
言葉を選ぶ。
「……いつからですか」
問いかけると、奏は少しだけ目を細めた。
それから、あっさりと答える。
「最初から、だって」
「……」
迷いのない答えだった。
「昔からやってたしね、入れ替わり」
肩をすくめるように言う。
「気分で変わったり、遊びみたいなもん」
軽い口調だった。
まるで大したことじゃないと言うみたいに。
「……」
「別にさ、珍しくもないんだよ」
そう言いながら、ちらりと葵を見る。
「ね?」
「……」
葵は何も言わない。
言えないのか、言わないのか分からない。ただ、その視線だけが、強く揺れていた。
「でもさ」
奏が続ける。
「本当に、ちゃんと私として会うつもりだったんだよ?」
少しだけ、声のトーンが落ちる。
「でも——」
そこで、止める。
それ以上は言わない。
「……」
けれど、それだけで十分だった。
全部繋がる。
最初に会った時の違和感も、距離感も、言葉の温度も。
「……」
その沈黙を破ったのは、葵だった。
「……違う」
かすれた声。
それでも、はっきりとした否定だった。
「そんなの……違う」
ゆっくりと顔を上げる。
「お姉ちゃんは、ずっと——」
「は?」
短く、遮る。
「何言ってんの?」
その一言で、空気が冷える。
「……」
葵はそれでも続ける。
「……なんで」
声が震えている。
「なんで、楽々浦くんを巻き込むの?」
「……」
「私たちの問題でしょ」
その言葉が、静かに落ちる。
「なのに、なんで関係ない人に——」
「関係ない?」
奏が笑う。
「本気で言ってる?」
一歩、近づく。
「関係あるに決まってるじゃん」
声が低くなる。
「全部、あんたのせいなんだから」
「……っ」
葵の肩が震える。
「……違う」
それでも、否定する。
「楽々浦くんは関係ない、だから——」
少しだけ、言葉に力が入る。
「いつものお姉ちゃんに戻って……」
「……」
その一言で、空気が変わる。
奏の表情が、ぴたりと止まる。
「……は?」
低い声。
「お前に」
ゆっくりと、顔が歪む。
「何が分かるんだよ」
一歩、また一歩と距離を詰める。
「お前に、私の何が分かる?」
その声には、明確な苛立ちが混ざっていた。
「……」
葵は言い返さない。
ただ、真っ直ぐに見ている。それが、余計に火をつける。
「最初はさ」
奏がぽつりと言う。
「ちゃんとやってたんだよ」
「……」
「お姉ちゃんとして」
少しだけ、笑う。
「最低な父親から守ってあげなきゃって思ってたし、嫌われ役も引き受けてた」
声は淡々としているのに、その奥にある感情がじわじわと滲む。
「でもさ」
顔を上げる。
「結局それって損じゃん」
「……」
「強い女の子より」
一歩、葵の前に立つ。
「こういう奴の方が、好かれるんだよ」
視線が、まっすぐ葵に突き刺さる。
「弱くて、守ってあげたくなるやつ」
「……」
「私はいつも傷ついてばかりで、気づいたら全部そっちに……ずっとそうだった」
静かに言う。
「全部」
「……そんなつもりじゃ」
葵が、かすかに声を出す。
「なかったって?」
即座に返される。
「知ってるよ、でも結果そうなってんじゃん」
言い切る。
「それが全部だろ」
「……」
言葉が詰まる。
「……でも」
それでも、絞り出す。
「それでも、楽々浦くんを巻き込むのはやめようよ」
「……」
「これは私たちの問題でしょ」
その一言で、空気が完全に止まる。
「……あっそ」
小さく呟く。
その声に、感情は乗っていない。
「じゃあさ」
ゆっくりと視線を外す。
そして——
近くにあった鈍器を手に取る。
「——これで終わりにする?」
「……っ!」
空気が一気に張り詰める。
「やめてください!」
反射的に声が出る。
けれど、奏は止まらない。
そのまま、迷いなく振り上げる。
狙いは、葵。
「——っ!」
考えるより先に、体が動いた。
間に入る。
その瞬間——
鈍い音が響く。
「……あ」
視界が揺れる。
何が起きたのか、一瞬分からない。遅れて、痛みが来る。
頭に、直撃していた。
「……っ」
膝が崩れる。視界が、ぐらりと傾く。
「……なんで」
遠くで、奏の声が聞こえる。
「なんで庇うの?」
答えようとする。
けれど、声が出ない。
「……」
視界の端で、葵が何かを叫んでいる。
でも、音が遠い。
「……っ」
意識が、ゆっくりと沈んでいく。
最後に見えたのは——
揺れている二人の姿だった。




