163話 俺×正体=もう戻れません。
「……奏先輩」
その一言で、空気が静かに軋んだ。
一瞬だけ、時間が止まる。
それから——
「……あーあ」
軽い声が落ちる。
葵の姿のまま、口元だけがゆっくりと歪む。
「バレちゃったか」
残念そうでも、焦っているわけでもない。どこか、肩の力が抜けたような声音だった。
「……」
真守は何も言わない。もう、確認する必要はない。
「でもさ」
奏が一歩、踏み出す。
「結構うまくやれてたよね?」
くすっと笑う。
「一番最初に会った時とか、完全に騙されてたし」
「……」
その言葉に、胸の奥がわずかにざわつく。
「……最初に会ったのは」
ゆっくりと言葉を出す。
「本当の葵先輩だと思ってました」
一拍置く。
「……違いますよね」
奏が、目を細める。
「うん」
あっさりと肯定する。
「私だよ」
「……」
「たまたま入れ替わってた時だったけどね」
軽く言う。
「でもさ、あの時——」
少しだけ、声が柔らかくなる。
「一目で好きになった」
「……」
空気が、わずかに変わる。
「本当はちゃんと、自分として会いたかったんだけど」
小さく息を吐く。
「ま、結果的には良かったかなって思ってた」
「……」
「だって」
真っ直ぐに見る。
「最初に会ったの、私なんだよ?」
その言葉が、重く残る。
けれど——
そこで終わらなかった。
「でもさあ」
声の温度が、ゆっくりと下がる。
「次に見た時にさ」
視線が、椅子に縛られている葵へ向く。
「やられてたんだよね」
「……」
「キス」
短く言う。
その一言で、これまでの思い出がゆっくりと流れ出す。ただ、そんなことなど関係ないように空気が凍る。
「よりによって、あの子が」
小さく笑う。
「また、だよ」
ぽつりと落ちる。
「……また?」
思わず聞き返す。
奏は、静かに頷く。
「昔からそう……私のもの、全部あっちに行く」
「……」
「気づいたら、取られてる」
淡々とした声だった。
怒りをぶつけるわけでもなく、ただ事実を並べるように。
「……だから」
顔を上げる。
その目は、もう笑っていなかった。
「今回くらい、いいでしょ?」
「……」
言葉が出ない。
何か言わなければいけないのに、何も浮かばない。
「それに」
奏が、ゆっくりと葵の前に立つ。
「ちょうどよかったし」
「……何がですか」
「決定打」
そのまま、葵の髪を掴む。
「——っ!」
体が引き上げられ、無理やり顔を上げさせられる。
「ねえ」
低く言う。
「覚えてる?」
強く、視線を合わせる。
「私に邪魔しないでって言ったよね?」
「……っ、んんっ……!」
口を塞がれているせいで、まともに声が出ない。
それでも必死に何かを訴える。
首を振る。
否定する。
「違う?」
笑う。
「違わないよね?」
そのまま——
頬を打つ。
乾いた音が響く。
「やめてください!!」
思わず叫ぶ。
体が勝手に動き、奏の手を掴む。
「もうやめてください!」
「……」
奏の動きが止まる。
ゆっくりとこちらを見る。
「……なに?」
本気で不思議そうな顔だった。
「なんで止めるの?」
「……それ以上やる必要ないでしょう」
強く言う。
「……」
少しだけ、間。
それから——
ふっと笑う。
「優しいね」
「……」
「やっぱ好きだわ」
軽く言う。
その温度差に、言葉が詰まる。
「……」
その隙に、真守は葵に手を伸ばす。そのまま、口を塞いでいた布を外した。
「……っ、は……」
息が漏れる。
震えている。
「……大丈夫ですか」
小さく声をかける。
葵は、ゆっくりと顔を上げ、視線が合う。その目には、はっきりと恐怖があった。
「……ささうら、くん……」
かすれた声。
「……ごめんね」
震える声で言う。
「……お姉ちゃん、止められなくて」
「……」
その一言で、空気が歪む。
背後で、何かが変わる。
「……は?」
低い声。
振り返る。
奏が、立っていた。
さっきまでの余裕は消えている。
「……何それ」
一歩、近づく。
「なんで真守に謝ってんの?」
声が震えている。
怒りと、何か別の感情が混ざっている。
「……違うでしょ」
「……」
「まず謝るの、私じゃないの?」
その目は、完全に壊れていた。
「ねえ」
もう一歩、近づく。
「なんであんたが真守に謝ってんの?」
「……」
「なんで私じゃないの?」
部屋の空気が、完全に変わる。
もう戻らない。そのことだけが、はっきりと分かっていた。




