162話 俺×確信=その名前が答えです。
女子寮の廊下は、妙に静かだった。
足音だけがやけに響く中、前を歩く葵の背中を一定の距離で追いかける。
振り返る気配はない。こちらがついてきていることを、最初から分かっているような歩き方だった。
迷いも、ためらいもない。ただ、決まった道をなぞるように進んでいく。
その背中を見ているだけで、頭の中の違和感が少しずつ形になっていく。
最初に会った時のことを思い出す。
妙に距離が近かった。初対面とは思えないほど踏み込んできて、やけに自然に話しかけてきた。
あの時は、ただそういう性格なんだと思っていた。
けれど——今なら分かる。
あれは、違かった。
廊下を曲がり、さらに奥へ進むにつれて人の気配が薄れていく。生活音が消えていく中で、葵だけが変わらない速度で歩き続けていた。
やがて、一つの部屋の前で足を止める。
「ここだよ」
軽く言うと、そのままドアノブに手をかける。
ほんの一瞬、息を止める。
ここで全部が繋がる——そんな確信に近い予感があった。
ドアが開く。
空気が、わずかに変わる。
部屋の中は整っていた。生活感はあるのに、どこかだけが不自然に静かだった。
その中で、最初に目に入ったのは椅子だった。
その上に座らされている人物を見て、反射的に思う。
——奏先輩。
手足を縛られ、口も塞がれている。俯いていた顔がゆっくりと上がる。
目が合った瞬間、はっきりと分かった。
光が戻る。
必死に何かを伝えようとしている。
声は出ない。それでも、助けを求めているのが伝わってくる。
「……」
一歩、踏み出しかけて止まる。
その瞬間——
「ねえ、ちゃんと見てあげてよ」
背後から、軽い声が落ちる。
反射的に振り返る。
葵が、壁にもたれながらこちらを見ていた。
笑っている。
「可哀想でしょ?」
その言い方は優しいのに、言っていることはまるで逆だった。
「昨日さ、ちょっと暴れすぎちゃって」
軽く肩をすくめる。
「抑えるの、大変だったんだよね」
そのまま、ゆっくりと近づいてくる。
「でもさ」
椅子の方に視線を向ける。
「こうして大人しくしてると、ちゃんと可愛いよね」
「……」
言葉が出ない。
そのやり取りだけで、何をされていたのかが想像できてしまう。
見たくない。でも、目が逸らせない。
「ね?」
葵が、椅子に縛られた“奏”の顎を軽く持ち上げる。
ビクッと体が震える。
「ほら、ちゃんとこっち見て」
無理やり顔を向けさせる。その目は、怯えていた。はっきりと。
「やめてください」
抑えきれずに、思わず声が出てしまう。
その瞬間、葵がゆっくりとこちらを見る。
「……なに?」
不思議そうに。
本当に分かっていないみたいに。
「……見てられないです」
絞り出すように言う。
「……」
一瞬だけ、空気が止まる。
それから——
葵が、小さく笑った。
「優しいね」
心底楽しそうに。
「そういうとこ、ほんと好きだよ」
一歩、距離を詰めてくる。
「でもさ」
少しだけ声のトーンが落ちる。
「これ、全部この子が悪いんだけど」
軽く言う。
「すぐ壊れるし、すぐ泣くし」
「……」
「ほんと、邪魔なんだよね」
その言葉に、椅子の上の奏が必死に首を振る。
声は出ない。それでも、否定しているのが分かる。
「……」
もう一度、視線を向ける。
顔。
傷。
位置。
一致しない。
そして——手首。
そこにあるはずのものが、ない。
「……」
静かに、息を吐く。
全部、繋がる。
最近の出来事。
生徒会室で暴れていた“葵”。そのあとに会った“奏”。名前を呼ばれた時の違和感。
全部が、一つになる。
「……」
ゆっくりと振り返る。
そこにいる“葵”を見る。
その顔、その笑い方。
もう、分かっている。
最初から、違っていた。
距離も、言葉も、全部。
「……」
一歩、踏み出す。
「……もういいです」
静かに言う。
声は、驚くほど落ち着いていた。
「最初から、違和感はありました……距離も、言葉も……噛み合ってなかった」
視線を逸らさない。
「でも、一番は……名前です」
そのまま、目の前の“葵”を見る。
「昨日、初めて呼ばれた時、やっと繋がりました」
空気が止まる。
音が消える。
完全な沈黙。
それでも、目を逸らさない。
そして——
一歩だけ、近づく。
「……もういいです」
小さく繰り返し、そのまま、はっきりと言う。
「奏先輩」




