161話 俺×前夜=静けさが一番怖いです。
文化祭準備で一日が終わる頃には、頭の中はほとんど機能していなかった。
クラスの喧騒も、神宮丸の軽口も、白ヶ崎の視線も、どこか遠くに感じる。やるべきことは分かっているのに、それに向かうための思考だけが妙に鈍っていた。
それでも時間は進む。
放課後が終わり、気づけば寮の前に立っていた。
ドアノブに手をかける瞬間、ほんの少しだけ躊躇う。
中に入れば、現実と向き合わなければならない。けれど、逃げるわけにもいかない。
ゆっくりと扉を開ける。
「……おかえり」
いつもより少しだけ控えめな声だった。
真希那が、玄関のすぐ奥で立っている。飛びついてくることもなく、距離を保ったまま、こちらの様子をうかがっていた。
その違いだけで、空気が伝わる。
気を遣っている。
それが分かるだけで、少しだけ気が緩んだ。
「……ただいま」
短く返す。
その背後から、すぐにもう一人の足音が近づいてくる。
「真守くん」
白ヶ崎だった。
心配を隠しきれていない声で、すぐ近くまで来る。
「……ご飯、食べよ。ちゃんと」
無理に明るくしているわけではない。ただ、自然に寄り添うような言い方だった。
「……ああ」
素直に頷く。
拒む理由がなかった。
リビングに入ると、いつもと同じように食事の準備がされている。それなのに、どこかだけが違って感じるのは、多分自分のせいだ。
椅子に座り、箸を持つ。
しばらくは、何も話さずに食べる。
味は、ほとんど分からなかった。
「……」
「……昨日さ」
不意に、自分から口を開いた。
二人の視線が向くのを感じる。
「葵先輩が……自分で腕切った」
言葉にすると、やけに現実味が増す。
「……」
空気が一瞬だけ止まる。
真守は最近の、葵の動向を正直に話す
白ヶ崎の手が、わずかに止まる。
真希那は何も言わず、じっとこちらを見ている。
「……それで」
続ける。
「なんか……おかしいと思って」
「……」
「二人とも、違和感とかあるって感じた?」
少しだけ間があった。
先に口を開いたのは白ヶ崎だった。
「……ある」
短い答え。
「正直、前からちょっと思ってた」
「……」
「なんか……噛み合ってないっていうか」
言葉を探すように続ける。
「同じ人なのに、違う人と話してるみたいな時、あった」
その一言で、胸の奥がざわつく。
やっぱり、気のせいじゃなかった。
「……私も」
今度は真希那が口を開く。
いつもの軽い調子じゃない。
少しだけ真面目な声だった。
「その話を聞く限り、違和感はある」
「……」
「でもさ」
そこで一度、言葉を区切る。
「それって、気づいちゃいけないやつっぽくない?」
「……」
妙に核心を突く言い方だった。
言葉にはしていないのに、分かってしまう。
踏み込めば、戻れなくなる。そういう種類の違和感だった。
「……」
「……明日」
自然と口から出る。
「はっきりさせる」
二人を見る。
「葵先輩と、ちゃんと話す」
白ヶ崎の表情が変わる。
「……やめた方がいいよ」
すぐに言う。
「危ないって、分かってるでしょ」
その通りだった。
実際に、目の前で見ている。
それでも——
「……でも」
言葉を選ぶ。
「ここで逃げたら、何も進まない」
「……」
白ヶ崎は何も言い返せない。
代わりに、少しだけ視線を落とす。
その横で、真希那がふっと息を吐いた。
「……いいじゃん」
軽く言う。
「行ってきなよ」
「……真希ねぇ」
「止めないよ、私は」
真っ直ぐな目だった。
「まーくんが自分で決めたなら、それが一番いい」
その言葉には、迷いがなかった。
「……」
少しだけ間を置いてから、続ける。
「その代わりさ、私も行く」
「……」
「一人で行かせるほど、バカじゃないでしょ」
その言い方に、少しだけ力が抜ける。
「……頼む」
素直に言う。
「手伝ってほしい」
真希那は、小さく笑った。
「任せなさい」
それから、少しだけ声を落とす。
「……"きょうだい"の気持ちも、分かるからさ」
「……」
「姉ってさ、そういうもんだから」
それ以上は言わなかった。
けれど、その一言だけで十分だった。
白ヶ崎も、ゆっくりと頷く。
「……今回は」
小さく息を吐く。
「任せる」
視線を合わせる。
「でも、絶対無茶しないで」
「……ああ」
短く返す。
それだけで、十分だった。
そのまま食事を終え、シャワーを済ませ、気づけば夜になっていた。
布団が三つ、並べられている。
いつもの光景のはずなのに、どこかだけ緊張感が残っている。
真ん中に入る。
左右に気配がある。
それだけで、落ち着くはずなのに——
体に力が入る。うまく、力が抜けない。
「……」
その変化に気づいたのか、隣で布団が動く。
「まーくん」
真希那の声。
次の瞬間、腕が回され、そのまま軽く抱き寄せられる。
「大丈夫」
小さな声だった。
それから、ゆっくりと頭を撫でられる。子供をあやすみたいに、一定のリズムで。
「……」
驚いた。
けれど、不思議と嫌じゃない。
そのまま力を抜く。呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
その反対側から、今度は別の気配が近づく。
「……」
白ヶ崎だった。
無言のまま、反対側から抱きついてくる。
そして、同じように頭を撫でる。対抗するみたいに。
「……」
普段なら、真希那が何か言うはずだった。
からかったり、言い返したり。
けれど——
何も言わなかった。
ただ、静かに撫で続けている。そのまま、誰も何も言わずに時間が過ぎていく。
静かなまま。そのまま、意識が落ちた。
次の日の放課後。
覚悟は、もう決まっていた。
奏に会う。それが、最初の一歩のはずだった。
教室を出て、廊下を歩く。
目的地へ向かう途中——
「真守」
背後から声がかかる。
体が、反射的に強張る。
振り返る前に分かる。
この声は——
ゆっくりと振り向く。
そこに立っていたのは、葵だった。
「……」
昨日の光景が、一瞬で蘇る。
体が、動かない。
「どうしたの?」
いつも通りの声。いつも通りの笑顔。それなのに、違う。
「私に会いたかったんでしょ?」
自然に言う。
まるで、最初から知っていたかのように。
「……」
言葉が出ない。
「奏のところに案内してあげる」
一歩、近づく。
「来て」
逃げなきゃいけない。
頭では分かっている。
それなのに——
足が、動かなかった。
振り返りもせずに、葵はそのまま歩き出す。
ついてくることを、当然のように分かっている歩き方だった。
「……」
その背中を見ながら、ようやく一歩踏み出す。
逃げる選択肢は、もうなかった。
静かに、その後を追う。
その先に何があるのか分からないまま——
ただ、確実に“答え”に近づいていることだけは、分かっていた。




