160話 俺×似ているもの=同じはずなのに違います。
会長室の空気は、さっきまでの騒がしさが嘘みたいに静まり返っていた。
何も起きていないかのように整えられた空間。それなのに、自分の中だけがひどく乱れている。
さっきの光景が、まだ頭から離れない。
刃の光、滲んだ赤、壊れたような笑い方。
思い出すだけで、呼吸が浅くなる。
それを見透かしたように、会長が穏やかな声で言った。
「落ち着いたかい」
短く息を整えながら、なんとか頷く。
完全に落ち着いているわけじゃない。ただ、言葉を返せる程度には戻ってきただけだ。
「……赤坂先輩の件なんですけど」
意識的に話題を変える。
これ以上、さっきのことを考え続けるのは危険だと感じたからだ。
「進捗はどうなってますか」
会長は一拍置いてから、静かに答えた。
「大きくは変わっていない」
それだけだった。
あまりにもあっさりした返答に、逆に不安が増す。
何も進んでいないのか。それとも、進んでいるけど言えないのか。
判断がつかない。
喉の奥に引っかかっていたものが、そのまま言葉として出た。
「……分からないんです」
自分でも驚くほど、弱い声だった。
「全部が繋がらなくて。赤坂先輩のことも、葵先輩のことも……」
言葉にするほど、混乱が浮き彫りになる。
「何が本当で、何が嘘なのかも、もう分からないです」
会長はすぐには答えなかった。
その代わりに、じっとこちらを観察するように視線を向ける。その沈黙には、責めるような気配はない。ただ、整理されるのを待っているようだった。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「君の選択は、間違っていない」
はっきりとした声だった。
迷いがない。
「むしろ、正しい方向に進んでいる」
「……でも」
思わず言いかける。
何も分かっていないのに、正しいと言われても納得できない。
その言葉を遮るように、会長は続けた。
「答えが見えていないだけだ」
そして、少しだけ視線を落とす。
「答えは、もうすぐそこにある」
その言い方が妙に引っかかった。
目の前にあるのに、見えていない。
そんな言い方だった。
「ただ」
会長は軽く指先を組む。
「君は、物事を分けすぎている」
「……分けすぎている?」
「一つ一つを、別のものとして扱っている」
「……」
理解が追いつかない。
「だが、それが本当に別だと、どうして言い切れる?」
その一言で、思考が一瞬止まる。
「似ているものを、無理に切り離していないかい」
静かな声だった。
押し付けるような強さはない。
それなのに、その言葉は妙に深く入り込んでくる。
似ているもの。
別だと思い込んでいるもの。
頭の中で、何かが引っかかる。
葵と奏。
「……」
その瞬間、思考が一気に繋がりかける。
けれど——
まだ、確信には届かない。
曖昧なまま、形にならない。
そんな自分の様子を見て、会長はそれ以上は踏み込まなかった。
「今日はもう帰りなさい」
穏やかな声に戻る。
「これ以上考えても、今は混乱するだけだ」
「……はい」
素直に頷くしかなかった。
このまま無理に考え続けても、余計に絡まるだけだと自分でも分かっていた。
会長室を出た後のことは、ほとんど覚えていない。気づけば寮に戻っていて、気づけば自分の部屋に立っていた。
白ヶ崎が何かを言っていた気がする。真希那の声も聞こえた気がする。けれど、それらは全部、遠くの出来事みたいにしか感じられなかった。
現実感が薄いまま、体だけが動いている。
そのままベッドに倒れ込む。
食事を取る気にもならないし、会話をする余裕もない。
頭を使うこと自体がしんどかった。
目を閉じた瞬間、そのまま意識が落ちる。
そして——次に目を開けた時には、朝だった。
部屋の中は妙に静かで、誰の気配もしない。
体を起こして周囲を見ると、隣の布団は空だった。
少し考えてから、ようやく理解する。
気を遣ったのだろう。
真希那と白ヶ崎は、別の部屋で寝たらしい。
その優しさが、今は少しだけありがたかった。
一人で考えられる。
昨日、会長に言われた言葉を。
「似ているものを、別だと思い込んでいないか」
その一文が、何度も頭の中で繰り返される。
葵。
奏。
思い出していくと、小さな違和感がいくつも浮かび上がる。
言葉の癖、距離感、視線。
一致している部分と、ズレている部分。
それが偶然とは思えなくなってくる。
胸の奥が、ざわつく。
もう、見ないふりはできない。
「……行くか」
小さく呟き、部屋を出る。
誰にも声をかけずに、そのまま学校へ向かった。
教室には寄らない。
向かう先は決まっている。
奏のクラス。
扉の前で一度だけ立ち止まり、深く息を吐く。
そのまま中に入ると、すぐに目に入った。
奏が、何事もなかったかのように席に座っている。
その姿を見た瞬間、安堵と違和感が同時に胸に浮かぶ。
「奏先輩」
声をかけると、奏が顔を上げる。
「どうしたの?」
いつも通りの調子だった。
「少し、いいですか」
「いいよ」
軽く立ち上がる。
迷いのない動きだった。
そのまま二人で教室を出て、空き教室へ向かう。
扉が閉まると同時に、周囲の音が一気に遮断される。
そこで改めて、奏の姿をしっかり見る。
思っていた以上に、状態はひどかった。
腕に残る傷。首元の赤い跡。まだ新しいものも混ざっている。
見ているだけで、痛みが伝わってくるようだった。
「そんなに見る?」
奏が少し笑う。
「……いえ」
言葉に詰まる。
何から聞くべきか迷った末、結局一番気になっていることを口にした。
「葵先輩が……壊れたみたいなんです」
奏は一瞬だけ視線を逸らしてから、小さく笑った。
「やっぱり?」
軽い言い方だった。
けれど、その奥にあるものは軽くない。
「葵って昔からそうだからさ」
優しい声で続ける。
「だから気をつけてって言ったじゃん」
その言葉に、素直に頷いてしまう。
それが正しい反応だと、どこかで思ってしまった。
次の瞬間だった。
奏の表情が崩れる。
「……ほんとに、最近おかしくて」
声が震える。
「止めようとしたんだけどね」
腕を見せる。
傷がはっきりと見えた。
「この通り」
胸の奥が強く締め付けられる。
気づいた時には、自然と距離を詰めていた。
「大丈夫ですか」
奏は一瞬だけ驚いた顔をして、それからゆっくりと目を細める。
そして——泣いた。
静かに、抑えきれないように。
「怖かった」
小さく零れる声。
そのまま、体が寄ってくる。
抱きつかれる。
突然のことだったが、拒絶する理由はなかった。
「私を守って」
震える声が、すぐ近くで響く。
迷いはなかった。
「……分かりました」
自然に答えていた。
奏が少しだけ顔を上げる。
涙で濡れた目のまま、こちらを見る。
「ほんと?」
「はい」
短く返す。
その言葉を聞いた瞬間、奏の表情がわずかに変わる。
泣いているはずなのに、どこか安心したような笑みが混ざる。
「じゃあさ」
声が少しだけ柔らかくなる。
「明日の放課後、葵に会わせてあげる。直接話した方がいいでしょ?」
「……はい」
頷くしかなかった。
その提案は、あまりにも都合が良すぎる。けれど、それでも断る理由が見つからない。
奏はそのまま、じっとこちらを見る。
そして——
「ありがとう、真守」
初めて奏に名前を呼ばれる。
「大好き」
少しだけ場違いな言葉だった。
けれど、その違和感すら、今は判断できない。
「……はい」
そのまま受け入れる。
その瞬間、胸の奥で何かが確かに動いた。
違和感が、形になりかけている。
まだ断定はできない。
けれど——
確実に、何かがおかしい。
そして、その“おかしさ”の正体は、もうすぐ掴めるところまで来ている。
そう確信した時、自然と覚悟が固まっていた。
明日で、決着をつける。
そう思った。




