158話 俺×朝=何もなかったことになっています。
夜の公園での出来事は、結局最後まで整理できないままだった。
帰り道も、部屋に戻ってからも、頭の中にはあの言葉だけが残り続けている。
——死ねばいいのに。
誰に向けたものだったのか。
考えれば考えるほど、答えは一つしかないように思えてしまう。姉妹喧嘩、その流れで出た言葉。なら、あれは奏に向けたもの——
「……」
そこまで考えて、思考が止まる。
それで納得していいのか。
あの時の空気は、ただの苛立ちで片付けていいものだったのか。
分からない。
けれど——
考えても仕方がないと、無理やり結論を押し込める。
今はそれよりも優先すべきことがある。
赤坂の件、共犯者、タイムリミット。
「……はぁ」
小さく息を吐く。
目を閉じても、あの瞬間の葵の表情が浮かぶ。笑っていたのか、無表情だったのかすら曖昧なのに、確実に“何かがおかしかった”という感覚だけが残っていた。
それでも——
翌日は、普通に来る。
朝、寮の部屋で目を覚ました時、最初に浮かんだのはやっぱり昨日のことだった。
隣を見る。
白ヶ崎が、いつものように寝ている。
少しだけ安心する。
「……起きてる?」
小さく声をかけると、白ヶ崎がゆっくりと目を開ける。
「……おはよ」
「おはよ」
自然に返す。
こういう何気ないやり取りが、妙に落ち着いた。
「……どうしたの」
顔を覗き込まれる。
「なんか顔暗い」
「……そうか?」
「うん」
即答だった。
「……別に、大したことじゃないよ」
誤魔化すように言う。
白ヶ崎は少しだけこちらを見ていたが、それ以上は踏み込んでこなかった。
「……そっか」
短く、それだけ。
その言い方に、無理に聞かないという意思が見えて、少しだけ助かる。
「……行くか」
気持ちを切り替えるように言う。
「うん」
真希那を置いて、二人で部屋を出る。
いつも通りの朝。
いつも通りの登校のはずなのに、胸の奥に引っかかるものだけが消えなかった。
生徒会室の前に立った時、ほんの少しだけ足が止まる。
理由は分かっている。
扉の向こうに、葵がいるかもしれない。
昨日のままなのか、それとも何事もなかったかのように振る舞うのか。
どちらでもおかしくて、どちらでも怖い。
「……」
小さく息を吸う。
そのままドアを開ける。
「おはようございます」
声をかける。
「——あ、真守」
すぐに返ってきた声。
振り返る。
そこにいたのは、いつもの葵だった。
「おはよ」
軽く手を振る。
「……」
一瞬、言葉を失う。
あまりにも、普通だった。昨日の空気が嘘みたいに消えている。
「……おはようございます」
少し遅れて返す。
「どうしたの?なんか変な顔してる」
「……いや、別に」
「ふーん」
特に気にした様子もなく、葵はそのまま近づいてくる。
距離が、近い。
昨日と同じ感覚。
「……」
けれど、表情は普通、声も普通。
だからこそ、余計に分からなくなる。
「今日、やるんでしょ?」
葵が言う。
「黒ヶ峰」
「あ……はい」
思考が一瞬遅れる。
「じゃ、行こ」
当たり前のように言う。その自然さが、逆に引っかかった。
「……行きましょう」
そう返して、歩き出す。
黒ヶ峰のいるスペースへ向かう途中、歩きながらふと違和感に気づく。
隣を歩く葵。
歩幅が、少しだけ近い。腕が触れそうで触れない距離。
「真守」
名前を呼ばれる。
一瞬、足が止まりそうになる。
「……はい」
「ちゃんと、隣にいるよね」
「……え」
意味が分からない。
「……どういう」
「なんでもない」
すぐに笑う。
「気にしないで」
「……」
その一言で終わる。
終わってしまう。
「……」
やっぱり、おかしい。
黒ヶ峰は、壁にもたれながらスマホを見ていた。
こちらに気づく。
ゆっくりと視線を上げる。
「……何」
短く、それだけ。
「少し、時間いい?」
真守が声をかける。
黒ヶ峰は答えない。
ただ——
視線が、真守から葵へと移る。
「……」
その瞬間だった。
空気が、わずかに変わる。
ほんの一瞬。
けれど、確かに。
「……あんた」
黒ヶ峰が、葵を見る。
言いかけて——止まる。
「……」
何も言わない。
そのまま、視線を逸らす。
「……いいけど」
面倒そうに言う。
「手短にして」
「ありがとう」
真守が軽く頭を下げる。
「赤坂先輩の件なんだけど——」
「知らない」
被せるように言う。
「関係ない」
「……」
即答だった。
「……本当に?」
「本当」
黒ヶ峰は淡々と言う。
「そもそも絡んだことないし」
「……」
嘘には見えない。
少なくとも、今までの誰よりも自然だった。
「……そうか」
これ以上は無理だと判断する。
「ありがとう」
軽く頭を下げる。
黒ヶ峰は何も言わない。
ただ——
もう一度だけ、葵を見る。
ほんの一瞬。その目は、明らかに“何かに気づいている”目だった。
廊下に出る。
しばらく無言が続く。
「……どうでしたか」
真守が口を開く。
「うん」
葵が頷く。
「シロっぽいね」
「……ですね」
自然に返す。
「……」
少しだけ間が空く。
その沈黙の中で、ふと視線を感じる。
横を見る。
葵が、じっとこちらを見ていた。
逃げ場のない視線。
「……」
昨日の夜が、重なる。
「……真守」
名前を呼ばれる。
静かに、逃げられないように。
「……はい」
「ちゃんと、見ててね」
「……え」
「私のこと」
「……」
言葉の意味が分からない。
けれど——
その響きだけが、妙に重く残った。




