152話 俺×接触=距離の詰め方を間違えています。
副会長スペースを出たあと、真守と葵はそのまま会計の席へと向かった。
廊下を歩く足音が、やけに静かに響く。
「……」
隣を歩く葵の気配が近い。
さっきからずっとそうだが、距離が一定より近いまま変わらない。
意識しないようにしても、どうしても気になる。
「……」
何も言わずに歩き続け、会計のスペースへと辿り着く。
中では、坂下が一人で机に向かっていた。
カタカタ、と規則的な音。書類をめくる音。ペンを走らせる音。顔を上げる様子もなく、黙々と作業を続けている。
「……」
その姿を見て、真守は一瞬だけ安堵する。
少なくとも、ここにはさっきのような張り詰めた空気はない。
——はずだった。
「坂下」
隣で、葵が声をかける。
「ん?」
坂下がようやく顔を上げる。
「あれ、夢百合さん」
軽い調子だった。
「どうしたの」
「ちょっと聞きたいことあってさ」
葵は自然に近づく。
一歩、また一歩と距離を詰めていく。
その動きは不自然じゃない。
ただの“会話の距離”のはずなのに、どこかじわじわと圧をかけているようにも見えた。
「赤坂ってさ」
唐突ではない。
けれど、急に核心に触れすぎないように、ほんの少しだけ回り道をしているような言い方。
「同じクラスだよね」
「……赤坂?」
坂下は少しだけ考える。
「うん、いるね」
「どんな感じの人?」
「どんなって……」
坂下は視線を少しだけ上に向ける。
思い出そうとしている様子だった。
「……別に普通じゃない?」
「普通かぁ」
葵が笑う。
そのまま、さらに半歩だけ距離を詰める。
「仲良かったりした?」
「いや、全然」
坂下はあっさりと答える。
「同じクラスだけど、話したことほとんどないし」
「へぇ」
葵の声が少しだけ落ちる。
「ほんとに?」
「……ほんとにだけど」
坂下の表情は変わらない。
淡々としている。それが逆に、余計な感情を感じさせない。
「……関わりとかも?」
「ないって」
坂下が少しだけ眉を寄せる。
「なんでそんな聞くの」
「いや、ちょっと気になって」
葵は笑ったまま、さらに一歩踏み込む。
距離が近い。
さっきまでの“会話距離”を、明らかに超えていた。
「最近さ、変じゃなかった?」
「……いや?」
坂下が少しだけ視線を逸らす。
その一瞬の動きを、葵は見逃さなかった。
「今、ちょっと間あったよね」
「は?」
「なんか隠してない?」
「隠してないけど」
声にわずかな苛立ちが混ざる。
「ほんとに関わりないって言ってるじゃん」
「でもさ」
葵がさらに詰める。
逃げ場を塞ぐように。
「“関わりない人”のことって、そんな考える?」
「……」
坂下が一瞬、言葉に詰まる。
「……いや、それは」
「なんで今考えたの?」
「だから——」
「何かあるからじゃないの?」
「ちょっと待ってください!」
真守が思わず割って入る。
空気が一気に変わる。
「……葵先輩、そこまで聞く必要ないです」
「なんで?」
即答だった。
「関係あるかもしれないじゃん」
「それでも、これは——」
「真守は知りたくないの?」
言葉が詰まる。
「……」
一瞬だけ、返せなかった。
その間に、葵はさらに一歩前に出る。
「坂下」
声のトーンが変わる。
柔らかさが消える。
「ほんとに、何もないの?」
「……っ」
坂下の肩が、わずかに揺れる。
怯えていた。
「……ないって言ってるでしょ」
小さく、そう返す。
けれど、その声にはさっきまでの余裕はなかった。
「……」
それを見た瞬間、真守は強く踏み出す。
「もういいです!」
葵の手首を掴む。
「行きましょう」
強引に引く。
「……」
葵は抵抗しなかった。ただ、引かれるまま動く。
「……すみません」
坂下に向かって頭を下げる。
「気にしないでください」
坂下はそれだけ言って、すぐに視線を戻した。
作業に戻る音が、やけに冷たく響いた。
そのまま半ば強引にその場を離れ、副会長スペースへ戻る。
椅子に腰を下ろした瞬間、真守は小さく息を吐いた。
「……やりすぎです」
はっきりと言う。
「あそこまでやる必要はありません」
「……」
葵は何も答えない。
ただ、じっと真守を見ている。
「……聞いてますか」
もう一度言おうとした、その時だった。
「ね」
葵が静かに口を開く。
「さっき」
真守の手を、そっと握る。
「触ってくれたよね」
「……っ」
一瞬、思考が止まる。
「……」
そのまま、ぎゅっと握られる。
指が絡む。逃げ場がない。
「嬉しかった」
小さく、でもはっきりと。
「……」
心臓の音がうるさい。
「……離してください」
反射的に手を振り払う。
「……」
葵の手が、空中で止まる。
そのまま、ゆっくりと下がる。
「……なんで?」
顔を近づけてくる。
さっきよりも、さらに距離が近くなる。
「嫌なの?」
「……」
答えられない。
何を言えばいいのか分からない。
「……」
葵の目が、真っ直ぐすぎる。
逃げ場がない。
「……」
視線を逸らす。
そのまま、腕時計を見る。
「……もうすぐ昼休みですね」
無理やり話題を変える。
「……一旦、休憩しませんか」
「……」
葵はしばらく何も言わなかった。ただ、じっと見ている。
それから——
「じゃあさ」
ぽつりと言う。
「一緒に食べよ」
「……え?」
「お弁当」
少しだけ嬉しそうに笑う。
「真守のために作ってきた」
「……」
意味が分からなかった。
「……自分の、ですか」
「うん」
当たり前みたいに頷く。
「一緒に食べよ?」
逃げ道が、なかった。
「……」
断る理由が見つからない。見つけてはいけない気もする。
「……分かりました」
小さく、頷く。
「……ありがとうございます」
「うん」
葵が笑う。
その笑顔を見ながら——
「……」
真守は、ほんの少しだけ背筋に冷たいものを感じていた。
それでも、そのまま二人は昼休みを過ごすことになった。




