149話 俺×再起動=騒がしい方が落ち着きます。
廊下の薄暗さの中で、真希那は床に座り込んでいた。
さっきまで感じていた別の種類の不穏さが、一瞬でどこかへ飛んでいくくらい、その姿は異様だった。
目元は真っ赤で、肩は細かく震えていて、いつもの勢いも、妙な自信も、何もない。ただ、完全に泣き崩れた人間がそこにいるだけだった。
「……え」
思わず、声が漏れる。
部屋の前で泣いている姉、という状況自体がまず頭に入ってこない。
しかも相手は真希那だ。勢いだけで生きてそうなこの人が、こんなふうに座り込んで涙をぼろぼろ零している光景なんて、これまで一度も見たことがなかった。
「まーくん……」
こちらに気づいた真希那が、顔を上げる。
その瞬間、さらに泣いた。
「うわ、ちょっ、なんでさらに泣くんだよ」
慌てて近づく。
近づいたら落ち着くかと思ったのに、むしろ逆だった。
真希那は何かを言おうとするたびにしゃくり上げて、まともに言葉にならない。肩を揺らして泣きながら、両手をばたばた動かしている。
「と、とりあえず落ち着けって」
「むりぃ……っ」
「無理じゃなくて、何があったか説明しろ」
「むりぃぃ……っ」
「会話になってねぇよ!」
隣で白ヶ崎が小さく息を吐く気配がした。多分、似たような感想を抱いている。
真希那は何かを伝えようとしているらしいのに、泣きすぎて音のほとんどが濁っている。
言葉の途中で息が詰まるし、しゃくり上げるし、目元を拭おうとして余計に涙を広げるしで、全然進まない。
「……とりあえず深呼吸しろ」
「ひっ……ひっ……」
「深呼吸!」
「ひっ……すぅ……ひっ……」
「下手か!」
あまりにも下手だった。
泣きながら呼吸を整えようとしてるせいで、吸うたびにしゃくり上げている。
本人は真剣なんだろうけど、見ているこっちはどこからツッコめばいいのか分からない。
「真希那さん」
白ヶ崎が少しだけしゃがんで、真希那の視線に合わせる。
「一回だけ、短く言ってください。何があったんですか」
「……っ、唯ちゃんがぁ……」
そこまでは聞き取れた。
「うん」
「家出しちゃってぇ……!」
「は?」
「唯ちゃんの家に入れないのぉー!」
「いや知らねぇよ!」
反射でツッコんでしまった。
けれど、真希那は本当にそれどころじゃないらしい。言えたことに安心したのか、また一気に泣き始める。
今度は“唯ちゃんがいない”“鍵が開かない”“どうしよう”あたりの単語が断片的に聞こえてくるが、泣き声に飲まれて全体像が見えない。
「……赤坂先輩、いなくなったのか?」
ようやく、そこだけが頭に入る。
今日会長から聞かされた話が、胸の奥に嫌な重みを落とす。
退学処分、学校に来ていない、夜な夜な生徒会室に侵入。そこに、今の“いなくなった”が重なると、どうしても悪い方向にしか考えられない。
「まーくんごめんねぇぇ……!」
「は?」
急に矛先が変わった。
真希那が勢いよくこちらへ顔を上げる。涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔のまま、ものすごい勢いで謝ってきた。
「今までごめんねぇぇぇぇ……!」
「いや、急にどうした」
「まーくんにひどいこと言ったぁぁ……!」
「分かった分かったから、まず落ち着けって」
「落ち着けなぁぁい……!」
「だろうな!」
もう完全にカオスだった。
さっきまでの不穏な空気だの、葵の異常さだの、そういうものが全部吹っ飛ぶくらい、目の前の状況が濃すぎる。
真希那は真面目に泣いてるし、本人の中では世界の終わりぐらいのテンションなんだろうけど、勢いが強すぎてむしろ現実味が薄い。
「……」
それでも、少しだけ安心している自分がいた。
この泣き方。
この騒がしさ。
この、感情が顔から声から全部漏れている感じ。
久しぶりだった。
ここ最近の真希那は、強がっているくせに妙に尖っていて、こっちまで身構えるような空気が続いていた。
けれど今目の前にいるのは、そんな不自然さが全部剥がれ落ちた、いつもの真希那だった。
「……はぁ」
小さく息を吐く。
それから、気づけば手が動いていた。
真希那の頭に、ぽんと手を置く。
「……え」
真希那が固まる。
そのまま、軽く撫でる。
深い意味なんてない。ただ、あまりにもいつもの真希那だったから、自然とそうしていた。
「……とりあえず、泣くな」
「……」
真希那の涙が、ぴたりと止まった。
さっきまで洪水みたいに泣いてたくせに、嘘みたいに止まる。
代わりに、今度は顔が一気に赤くなった。
「……ま、まーくん」
「なんだよ」
「……やさしい」
「今そこか?」
次の瞬間、勢いよく抱きつかれた。
「うおっ!?」
完全に油断していた。座り込んでいたと思ったら、急に立ち上がってそのまま飛びついてくる。
力加減なんて一切考えていない、いつもの真希那式の抱きつき方だ。
「ちょ、離れろって!」
「やだぁ……!」
「なんでだよ!」
「まーくんやさしいぃ……!」
「今その感想いらねぇから!」
さすがに、白ヶ崎も黙っていなかった。
「ちょっと!」
ぴしっとした声が飛ぶ。
次の瞬間、白ヶ崎が真希那の肩を掴んで、容赦なく引き剥がしにかかった。
「さすがに近い!」
「ええぇ……」
「ええぇじゃない!」
「咲音ちゃんごめんねぇぇ……!」
真希那が今度は白ヶ崎に向かって泣きながら抱きつく。
「なんで私!?」
「咲音ちゃんもやさしいぃ……!」
「今そういうのいいから離れて!」
「やだぁぁ……!」
「この人ほんと無理なんだけど!」
目の前の光景がめちゃくちゃだった。
泣きながら抱きつく真希那、引き剥がそうとしながら本気で困ってる白ヶ崎、その間に立ってどうしたらいいのか分からなくなってる自分。
さっきまでの空気はどこへ行ったのかというぐらい、全部のテンションが壊れている。
「……」
一旦、整理しないと無理だ。
そう思った瞬間、手が動いた。
真希那の頭を、軽くぺしっと叩く。
「いたっ」
「再起動しろ」
「昔のテレビみたいに言わないでよ!」
「今の真希ねぇは、完全に壊れた家電だろ」
「ひどくない!?」
「ひどいのは真希ねぇだよ!」
ようやく、真希那が一歩下がる。
白ヶ崎も、はぁぁ……と深いため息をつきながら距離を取った。乱れた前髪を直しているあたり、本気で疲れたらしい。
「……とりあえず中入るぞ」
「はい……」
「うん……」
両方から、疲れた声が返ってくる。
鍵を開けて部屋に入る。玄関のドアを閉めた瞬間、さっきまで廊下に残っていた妙な緊張感まで一緒に遮断された気がした。
リビングに移動する。
真希那をソファに座らせ、白ヶ崎は少し離れた位置に腰掛ける。
さっき抱きつかれたことがまだ尾を引いてるのか、若干警戒しているのが分かった。
「……」
少しだけ静かになる。
さっきまでの勢いが切れて、真希那もようやく呼吸を整え始めた。
「……まーくん」
「ん?」
「……ごめん」
今度は、ちゃんとした声だった。
泣きすぎて少し鼻にかかっているけれど、さっきみたいな勢い任せの謝罪じゃない。
「……いろいろ」
真希那が目元を拭く。
「変な意地張ってたし……ひどいこと言ったし」
視線が少しだけ泳ぐ。
「……ほんとに、ごめん」
「……」
真守は少しだけ黙る。
それから、素直に頷いた。
「……俺の方こそ悪かった」
真希那が、少しだけ驚いた顔をする。
「俺も言い方きつかったし。真希ねぇに当たったし」
言葉を選ぶ。
「……ごめん」
「……」
その瞬間、真希那の顔がまた少し崩れかける。
「泣くなよ?」
「だってぇ……」
「そこは我慢しろ」
「むりぃ……」
「真希ねぇ、さっきからそればっかだな」
「だって今日いろいろありすぎるもん……!」
「それはそうだな」
思わず同意してしまう。
隣で白ヶ崎が小さく吹き出した。ようやく少し空気が緩む。
「……で」
真守が姿勢を正す。
「赤坂先輩、何があった」
その名前を出した途端、真希那の表情がまた曇る。
「……私も、分かんない」
「は?」
「ほんとに分かんないの」
真希那は首を振る。
「昨日の夜までは普通だったし……今日だって、私、ちょっと出かけて戻ってきただけなのに」
指先をぎゅっと握りしめる。
「……部屋、開かなくて」
「……」
「最初は、ただ出かけてるだけかと思ったんだけど……連絡もつかないし」
声が、また少し震える。
「なんか、嫌な感じして……」
「……」
真守の胸の奥に、嫌なものが沈む。
会長の話、退学処分、生徒会室への侵入、共犯者。そして、所在不明の赤坂。
どれもまだ、完全には繋がっていない。
なのに、全部が一つの方向を向いている気がした。
「……」
白ヶ崎も口を挟まない。ただ静かに話を聞いている。
その空気が、余計に現実味を強める。
「……まーくん」
真希那が、少しだけ不安そうにこちらを見る。
「唯ちゃん……大丈夫かな」
「……」
その問いに、すぐ答えられなかった。
大丈夫だと軽く言える状況じゃない。でも、ここで黙り込むのも違う。
「……探す」
短く言う。
「絶対、なんとかする」
それが今の精一杯だった。
真希那はその言葉に、少しだけ目を伏せる。
「……うん」
小さく頷く。
その返事は弱かったけれど、少しだけ信じようとしているのが分かった。
「……」
部屋の中が静かになる。
さっきまでの騒がしさが嘘みたいに、空気が沈む。
真希那はようやく泣き止んだけれど、目元の赤さは消えていない。白ヶ崎も、表情を引き締めたままだ。
そして真守は、目の前の現実を改めて思い知らされていた。
赤坂は、本当にいなくなった。
どこへ行ったのかも分からない。
自分が動かなければならない理由が、また一つ増えてしまった。
さっきまで少しだけ戻っていた、騒がしい日常の感覚が、また静かに遠ざかっていく。
「……」
胸の奥が、ゆっくりと重くなる。
それでも、もう立ち止まれなかった。




