148話 俺×逃避=もう逃げるしかありません。
放課後のチャイムが鳴り終わっても、席を立つ気になれなかった。
教室の空気は、いつも通りだったはずなのに、どこか違って感じる。騒がしさも、笑い声も、全部が遠くにあるみたいだった。
「……」
視線を落とす。
頭に浮かぶのは——さっきの葵の顔だった。
あの目、あの距離、あの空気。
「……行くの?」
隣から、白ヶ崎の声。
「生徒会」
短く聞かれる。
「……今日は、いいや」
少しだけ間を置いて答える。
「……そう」
それ以上は何も聞かれなかった。
ただ、それだけで十分だった。
無理に聞かない、詮索もしない。
でも、離れない。
「帰るか」
小さく言う。
「うん」
白ヶ崎も、それだけ返す。
教室を出て、廊下を歩く。
いつもなら何も気にしないはずの距離なのに、やけに長く感じた。
「……」
何も話さない。
けれど、気まずさはなかった。
ただ——少しだけ急ぎ足になっている自分に気づく。
早く、ここから離れたい。理由は、分かっていた。
「……」
階段を降りて、昇降口へ向かう。
下駄箱が見えてくる。
その瞬間、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
ここまで来れば、大丈夫。そう思った。
靴を履き替える。
かかとを踏み込んで、外に出ようとした、その時だった。
「——真守」
背後から、声。
「……」
一瞬で、体が固まる。
聞き間違いじゃない。
分かっている。
でも——
「……行くぞ」
何事もなかったかのように、白ヶ崎に声をかける。そのまま歩き出そうとする。
「待って」
足音が近づく。
次の瞬間——
ぐっと、肩を掴まれた。
「っ……」
思わず、息が詰まる。
強い。
明らかに、いつもより。
「なんで無視するの?」
すぐ後ろから、声が落ちてくる。
近い。
距離が、おかしい。
「……いや、気づかなかっただけで」
振り返らずに返す。
声が少しだけ硬いのが、自分でも分かった。
「……ほんとに?」
少しだけの、間。
その間が、妙に長く感じる。
「……はい」
ようやく振り返る。
そこにいた葵の顔を見て——
一瞬、言葉を失った。
「……」
笑っているはずなのに。目が、笑っていなかった。
いや、それだけじゃない。どこか、ズレている。いつもと同じ顔のはずなのに、何かが違う。
「……」
ぞわり、と背筋に冷たいものが走る。
「……帰るの?」
葵が首を少し傾ける。
「生徒会、来ないの?」
「……今日はちょっと」
言葉を選ぶ。
不用意なことを言えば、どうなるか分からない。そんな感覚があった。
「……そっか」
葵が、ゆっくり頷く。
それだけなのに、圧が消えない。
むしろ——
近づいてくる。
「じゃあさ」
さらに一歩。
距離が詰まる。
「少しだけ、一緒に帰ろ?」
「……」
返事が、出ない。
断るべきなのは分かっている。でも、どう断せばいいのか分からない。
その時だった。
「ごめんなさい」
横から、白ヶ崎が一歩前に出る。
自然な動きだった。
「今日は真守くん、体調あんまり良くないから」
淡々と、言う。
「帰ります」
そう言って、真守の肩から葵の手を外す。
そっと、でも確実に。
「……」
一瞬、空気が止まる。
「……そっか」
葵が、ゆっくりと呟く。
そのまま——
今度は白ヶ崎の方に手を伸ばした。
「——っ」
白ヶ崎の手首が、掴まれる。
さっきと同じ。
いや、それ以上に——強い。
「ごめんね」
葵が言う。
声は、柔らかいのに。どこか、冷たかった。
「気づかなくて」
「……」
白ヶ崎の体が、わずかに強張る。
誰でもわかる。今のは、ただの謝罪じゃない。
「……離して」
白ヶ崎が言う。
短く、でも、はっきりと。
「帰るから」
視線を逸らさない。葵と、正面から向き合う。
「……」
数秒。
沈黙。
やがて、葵の手がゆっくりと離れる。
「……うん」
そして、にこりと笑う。
今度は、ちゃんとした笑顔に見えた。
でも——
さっきの違和感が消えたわけじゃない。
「また明日ね」
手を振る。その仕草は、いつも通りだった。
「……」
何も言えない。
そのまま、白ヶ崎に引かれるように外へ出る。
校門を出て、歩く。
少しだけ早足。いや、かなり速い。
「……」
振り返らない。
振り返ったら、何かが壊れる気がした。
「……」
しばらくして、ようやく足が緩む。
「……大丈夫?」
白ヶ崎が、小さく聞く。
「……ああ」
答える。
でも、自分でも分かる。全然、大丈夫じゃない。
「……」
さっきの葵の顔が、頭から離れない。
あれは、本当に——
「……帰ろ」
白ヶ崎が言う。
それ以上は何も聞かない。
ただ、歩く速度を少しだけ合わせてくれる。
その距離が、やけに安心した。
寮に着き、階段を上がる。
いつもと同じ廊下。いつもと同じ景色。
なのに、どこか違って見える。
「……」
部屋の前に着く。
鍵を出そうとした、その時だった。
「……まーくん」
声。
足元の方から。
「……?」
視線を落とす。
そこに——
真希那が、座り込んでいた。
「……え」
思わず、声が漏れる。
髪は少し乱れていて、目は赤い。
明らかに、泣いていた。
「……どうした」
駆け寄る。
真希那が顔を上げる。
「まーくん……」
声が、震えていた。
いつもの強さは、どこにもない。
「……どうしよう」
ぽろっと、涙がこぼれる。
「どうしよう、まーくん……」
その一言で——
さっきまで感じていた恐怖とは、別の種類の何かが胸に広がった。
そして、何かが——
また動き始めている気がした。




