147話 俺×間合い=その一歩が近すぎます。
廊下の空気は、少しだけ重かった。生徒会室を出てから、ほとんど会話はない。
前を歩く自分の足音と、そのすぐ後ろに重なるもう一つの足音。その距離は一定で、離れようとする気配がまるでない。
振り返らなくても分かる。
すぐ後ろに、葵がいる。
「……」
そのまま歩き続ける。
行き先は、自然と教室だった。
頭の中はまだ整理できていない。赤坂のこと、共犯者のこと、会長の言葉。全部が混ざって、まとまらないまま浮かんでいる。
それでも——
もう一つ、強く意識を引っ張るものがあった。
背後の気配。
「……」
教室の扉が見えてくる。
その瞬間、わずかに足が鈍る。
ここまで来て、ようやく振り返る。
葵と目が合う。
いつもの笑顔だった。
まるで、さっきのやり取りも、会長の部屋での空気も、何もなかったかのように。
その自然さが、逆に引っかかった。
「……葵先輩」
慎重に声をかける。
「……教室なんで」
それだけを、濁すように言う。
はっきり拒絶する言葉は選ばない。
選べなかった。
「うん」
葵は短く返す。
それで終わると思った。
「一緒に行くよ?」
あまりにも自然な一言だった。
「……」
言葉が詰まる。
断らなきゃいけない。
分かっているのに、すぐに言えない。
頭の中に、昨日の葵の様子が浮かぶ。
あの不安定さ。
不用意な言葉で、また崩れるかもしれない。
その可能性が、言葉を止める。
「……」
沈黙が落ちる。
葵は、待っている。
当然のように。
「……いや、その」
ようやく出た言葉は曖昧だった。
「……教室は、その……」
続かない。
自分でも分かる。完全に誤魔化している。
葵が、一歩近づき、距離がまた縮まる。そして、逃げ場がなくなる。
「なんで?」
声は静かだった。
それなのに、逃げ道を塞ぐような強さがあった。
「……」
返せない。
葵はさらに続ける。
「一緒にいちゃダメ?」
柔らかい言い方だった。
責めているわけでも、強く迫っているわけでもない。
それでも、その言葉の置き方が、選択肢を奪ってくる。
「……」
言葉を選ぶ。
慎重に、崩さないように。
「……ダメとかじゃなくて」
ようやく出た声は、ひどく中途半端だった。
「……その、クラスのやつらもいるし」
理由として成立しているのか、自分でも分からない。
葵は、少しだけ黙る。
その沈黙の中で、空気がじわじわと張り詰めていく。
逃げたいのに逃げられない感覚が、じわじわと首元を締め付けてくるようだった。
「……そっか」
葵が、短く言う。
納得したように聞こえる。
けれど、そこで終わらなかった。
視線は外れず、その場に立ったまま、じっとこちらを見ている。その視線の重さが、言葉よりも強く伝わってきて、思わず呼吸が浅くなる。
「ね」
ぽつりと落ちる声。
「私、邪魔?」
その一言は静かなのに、確実に逃げ道を塞いでくる。
「……っ」
心臓が跳ねる。
「違います」
反射的に否定する。
「そういう意味じゃなくて」
言葉が少し早くなる。焦りが隠しきれない。
それでも葵の表情は変わらない。ただ、こちらの反応を逃さないように見ている。
その視線の中にあるものをうまく言葉にできないまま、次の言葉を探したその瞬間だった。
「真守くん」
横から声が入り、反射的に振り向く。
白ヶ崎だった。
「行くよ」
それだけ言うと同時に、自然な動きで真守の手首を掴む。
強引ではないのに、迷いがない。そのまま一歩引かれると、それだけで空気の圧が一気に変わったのが分かった。
その流れのまま葵を見る。
その瞬間だった。
ほんの一瞬だけ、表情が消えた。
笑顔でもなく、無表情でもない。
ただ、何も乗っていない顔。感情だけが抜け落ちたような、空白。
次の瞬間には、もう戻っていた。
「いってらっしゃい」
いつもの声で、いつもの笑顔で。
さっきまでと何も変わらないはずなのに、その一瞬を見てしまった後では、同じものには見えなかった。
真守は何も言えないまま、白ヶ崎に引かれるようにして教室に入る。
扉が閉まると同時に、外とはまるで別の空気に切り替わる。さっきまで感じていた圧が嘘のように消えて、ようやくまともに呼吸ができることに気づく。
知らないうちに力が入っていたのか、肩が重かった。
「大丈夫?」
白ヶ崎の声は、現実に引き戻すように優しかった。
少しだけ間を置いてから、短く返す。
「……ああ」
それ以上は言えなかった。
頭の中には、さっきの光景が残り続けている。距離の近さも、言葉の選び方も、すべてが少しずつ噛み合っていなかった。
そして何より——あの一瞬の表情。
あれが何だったのか、うまく言葉にできない。ただ一つだけ、はっきりしていることがある。
あの空気は、普通じゃない。
そう思った瞬間、背筋にわずかな寒気が走った。




