144話 俺×救い=それは優しさで壊れていきます。
副会長スペースは、いつもと同じはずなのに、どこか違って見えた。
机の配置も、積まれた書類も、壁際の棚も何一つ変わっていない。けれど、そこに流れている空気だけが、少しだけ歪んでいるように感じる。
「……」
向かい合う形になる。
距離は近すぎず、遠すぎず。
それでも、その数歩の間にあるものが、やけに重かった。
「……」
葵は、何も言わない。
ただ、こちらを見ている。
その視線は逃げていない。けれど、どこか空洞のようで、感情の置き場を失っているようにも見えた。
「……」
真守は一度、ゆっくりと息を吐く。
ここで間違えたら、本当に戻れなくなる。そんな確信に近い感覚が、胸の奥にあった。
だから——
「……昨日のこと」
ぽつりと切り出す。
言葉を探すというより、選び直すように。
「……言い方、悪かったです」
声は落ち着いていた。
焦りも、逃げもない。
「……」
葵は反応しない。
ただ、聞いている。
その静けさが、逆にこちらの言葉の重さを浮き上がらせる。
「……」
少しだけ間を置く。
誤魔化す言葉は使わない。
「……突き放したつもりは、なかったです」
視線は逸らさない。
「……巻き込みたくなかっただけです」
それが、本音だった。
余裕がなかったわけじゃない。
むしろ逆だ。余裕がないと分かっていたからこそ、遠ざけた。
「……」
あの時の光景が、頭の奥に残っている。
祇園のこと。結城のこと。
あの場所に、あの状況に——
誰かを巻き込むことの重さ。
「……」
言葉が、自然と続く。
「……ああいうの、見せるもんじゃないと思ってるんで」
少しだけ声が低くなる。
「……普通に生活してる人が、関わるもんじゃないです」
それは、葵を否定するための言葉じゃない。
守るための線引きだった。
「……」
沈黙が落ちる。
その中で、葵の指先がわずかに動いた。
ほんの小さな変化。けれど、それが確かに届いている証だった。
「……」
真守は、続ける。
逃げずに。
「……だから、距離取ろうとしました」
はっきりと。
「……それだけです」
言い切る。
余計な補足はしない。
「……」
時間が、少しだけ止まったように感じる。
その中で——
葵が、ゆっくりと口を開いた。
「……うん」
短い。
それだけ。
「……」
肯定でも否定でもない。
ただ、受け取ったという反応。
「……」
それでも、少しだけ肩の力が抜ける。
けれど——
それで終わりではなかった。
「……」
葵は、視線を落とさなかった。
そのまま、真守を見ている。
そして、静かに続ける。
「……私がいると、危ないってことだよね」
「……」
言葉が、胸に引っかかる。
間違ってはいない。
けれど——そのままではない。
「……違います」
すぐに否定する。
「……葵先輩が危ないんじゃなくて」
言葉を選ぶ。
「……状況が、危ないんです」
少しだけ強く言う。
「……だから、巻き込みたくないってだけで」
「……」
葵の目が、わずかに揺れる。
ほんの少しだけ、色が戻る。
「……」
その変化を、見逃さない。
「……いてほしくないわけじゃないです」
それは、自然と出た言葉だった。
「……むしろ、その……」
少しだけ言葉が詰まる。
それでも——
「……助かってます」
「……」
その瞬間だった。
葵の表情が、わずかに崩れる。固まっていたものが、ゆっくりと緩んでいく。
「……ほんとに?」
小さな声。
それは確認というより——
縋るような問いだった。
「……はい」
迷わず頷く。
「……」
その一瞬で、空気が変わる。
ほんの少しだけ、柔らかくなる。
「……よかった」
葵が、ぽつりと呟く。
その声には、はっきりとした安堵が乗っていた。
「……」
一歩、距離が縮まる。
無意識の動きだったのかもしれない。
それでも、その一歩は確かに意味を持っていた。
「……私」
葵が、続ける。
「……いなくなった方がいいのかなって、思ってた」
その言葉は、静かだった。
でも、その奥にあった時間の重さが、はっきりと伝わってくる。
「……」
何も言わずに、聞く。
「……でも」
視線は逸れない。
まっすぐに向けられたまま。
「……そうじゃないなら」
一瞬だけ、言葉が途切れる。
ほんのわずかな、ためらい。
そして——
「……そばにいてもいい?」
「……」
その言葉は、軽くなかった。
協力でも、関与でもない。もっと個人的で、もっと深い場所の言葉。
「……」
真守は、少しだけ息を吸う。
迷いは——なかった。
「……はい」
短く、答える。
「……」
その瞬間、葵の目がはっきりと揺れた。
さっきよりも、強く。
「……よかった」
同じ言葉。
けれど、今度は確かに“感情”があった。
「……」
「そしたら、奏のことも許して欲しい……」
「も、もちろんです」
距離が、さらに縮まる。
ほんのわずか。
それでも、もう他人の距離ではなかった。
「……」
視線が、外れない。ずっと、向けられている。
「……」
その視線に、違和感を覚える。
さっきまでの不安とは違う。もっと、はっきりした何か。
「……」
言葉にできないまま、立ち尽くす。
「……私、ちゃんと頑張る」
葵が静かに言う。
「楽々浦くんの役に立てるように」
「……」
その言葉自体は、自然だった。
けれど——
「……」
そこに乗っているものが、少しだけ重い。
「……だから」
声が、わずかに強くなる。
逃がさないように。
確かめるように。
「……もう二度と離れないでね」
「……」
一瞬、呼吸が止まる。
その言葉の意味が、頭で理解される前に——
感覚として伝わってくる。
「……」
求められている。
強く。
「……」
拒絶ではない。
むしろ逆。
それでも——
「……」
何も言えなかった。
言葉にしてしまったら、何かが決定的に変わる気がした。
「……」
ただ、小さく頷く。
それだけだった。
「……」
それで十分だと言うように、葵は微笑む。
さっきよりも、はっきりとした笑顔。
安心しきったような、満たされたような。
「……」
副会長スペースの空気が、少しだけ柔らぐ。
距離は、もうほとんどなかった。その近さが、優しさのはずなのに。
なぜか——
少しだけ、怖かった。




