143話 俺×選択=間違ってなかったはずです。
窓の外は、すっかり夕焼けに染まっていた。
赤く伸びた光が、机の上に影を落とす。
その中で、ペンの音だけが淡々と続いている。
「……」
一つ、息を吐く。
手は動いているのに、頭はほとんど動いていなかった。さっきのやり取りが、ずっと引っかかっている。
横に視線を向ける。
葵は、いつもと同じ場所に座っている。
けれど——
空気が違う。
「……」
目が合わない。
いや、合わせてくれない。それだけで、十分すぎるほど分かった。
「……」
このまま帰るのは、違う。
そう思った瞬間、体が先に動いていた。
椅子を引き、立ち上がる。
その音が、やけに大きく響いた。
「……」
一歩、踏み出す。
距離は、数歩。それなのに、やけに遠く感じる。
「……葵先輩」
声をかけようとした、その瞬間——
「——楽々浦君」
後ろから、声が落ちてきた。
「……っ」
反射的に、振り返る。
会長が立っていた。
「……お疲れ様です」
軽く頭を下げる。
「少し、いいかな」
いつもと変わらない、穏やかな声。
「……」
視線が、わずかに揺れる。
さっきまで見ていた葵。そして、今目の前にいる会長。
「……すみません、今ちょっと——」
言いかけたところで。
「赤坂の件なんだが」
「……っ」
言葉が止まる。
空気が、変わる。
「……」
思考が、一瞬でそっちに持っていかれる。
赤坂。
その名前が、こんなタイミングで出るとは思っていなかった。
「……少し、込み入った話でね」
会長が静かに続ける。
「今、時間あるかな」
「……」
葵を見る。
俯いたまま、動かない。さっきのままの空気。壊れたままの距離。
「……」
胸の中で、何かが揺れる。
赤坂のことは、気になる。聞かなきゃいけない気もする。
でも——
「……」
今、目を逸らしたら。多分、もうちゃんと話せなくなる。
「……」
ゆっくりと息を吸う。
それから——
「……すみません」
はっきりと言う。
「今は、葵先輩と話したいです」
一瞬だけ、空気が止まる。
「……」
会長は何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ目を細める。
「……そうか」
それだけだった。
否定もしない。引き止めもしない。
けれど——
「……」
一歩、すれ違う瞬間。
静かに、言葉が落ちた。
「明日じゃ、間に合わないんだけどね」
「……っ」
足が、止まりそうになる。
意味が、分かるようで分からない。
でも——嫌な予感だけは、はっきりとあった。
「……」
振り返らない。振り返ったら、多分揺らぐ。
「……」
会長の足音が遠ざかる。
扉が閉まる音。
完全に、いなくなった。
「……」
静寂が戻る。
さっきよりも、重い沈黙。
「……」
胸の奥に、ざわつきが残る。
“間に合わない”
その言葉が、引っかかる。
「……」
それでも——
首を振る。
今は、こっちだ。そう決めたはずだ。
ゆっくりと、葵の方へ向き直る。
「……葵先輩」
もう一度、名前を呼ぶ。
今度は、逃げない。
「……」
少しだけ、間があって。
葵が、ゆっくりと顔を上げた。
目が合う。
その瞬間——
「……」
言葉が、詰まる。
さっきよりも、はっきりと分かった。
この人、かなり来てる。表情は崩れていない。
けれど——
その奥が、空っぽだった。
「……」
何か言わなきゃいけない。
分かってる。
でも、言葉を選び間違えたら——
もう、戻れない気がした。
「……」
喉が、少し乾く。
それでも——
口を開く。
「……さっきのことなんですけど」
ようやく、言葉が出た。
「……」
葵は何も言わない。
ただ、こちらを見ている。逃げない目だった。
でも——
どこか、もう諦めている目でもあった。
「……」
その視線に、胸が少しだけ痛む。
「……ちゃんと、話したいです」
それだけ、言う。
余計な言葉はつけなかった。
「……」
沈黙。
ほんの数秒。
けれど、それがやけに長く感じる。
「……」
やがて、葵が小さく息を吐いた。
それから——
「……いいよ」
短く、それだけ。
感情はほとんど乗っていない。
「……」
それでも。
拒絶されなかっただけで、十分だった。
「……」
真守は、小さく頷く。
胸の奥のざわつきは、まだ消えていない。会長の言葉が、ずっと引っかかっている。
それでも——
「……」
今は、目の前だ。
そう、自分に言い聞かせる。
「……」
この選択が正しいかなんて、まだ分からない。
けれど——
少なくとも、逃げるよりはマシだと思った。
そのまま、二人の間に残っていた距離が、ゆっくりと埋まり始める。




