142話 俺×先輩=近づくほど遠くなります。
放課後の生徒会室は、静かだった。
窓の外では、夕陽がゆっくりと沈み始めている。
赤く伸びた光が床を斜めに染めて、部屋の空気を薄暗く変えていた。
人はいる。
いつものメンバーが、それぞれ自分の仕事をしている。
紙をめくる音。
ペンの走る音。
キーボードを叩く音。
それだけ。
誰も無駄話をしない、誰も笑わない。
「……」
真守は、生徒会室のドアの前で一瞬だけ立ち止まった。
昨日のことが、頭をよぎる。
奏の言葉。
葵の表情。
そして——
あの帰り際の、無理やり作ったような笑顔。
「……」
小さく息を吐いて、ドアを開ける。
「失礼します」
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
その瞬間。
何人かが一瞬だけこちらを見る。
けれど、すぐに視線は戻っていく。
いつも通り。
そう、“いつも通り”のはずだった。
「……」
視線を動かす。
葵がいた。
副会長席。
書類を広げたまま、淡々とペンを走らせている。
その横顔を見た瞬間——
一瞬だけ、目が合った。
「……」
けれど、すぐに逸らされた。
それだけだった。
「……」
何も言われない。
いつもなら、何かしらあるはずなのに。
「お疲れ」とか。
「遅かったね」とか。
そういう小さな言葉。
それが今日は、一つもない。
「……」
真守は何も言えないまま、自分の席へ向かった。
椅子を引く音だけが、妙に耳に残る。
机の上の書類を手に取る。
目を通す。
けれど。
内容が、全然頭に入ってこない。
「……」
横にいる、距離は近い。
それなのに——妙に遠かった。まるで、透明な壁でもできたみたいに。
「……」
ペンを持つ。
書類に目を落とす。
数字を確認して、記入して、まとめる。
いつもやっている作業。
それなのに、今日はやけに手が重い。
「……」
ふと、隣から音が聞こえる。
ペン先が紙を擦る音。
一定じゃない。
動いて。
止まって。
また動いて。
微妙に乱れている。
「……」
真守は、視線を落としたまま小さく眉を寄せた。
明らかに、おかしい。
葵は、普段こんなミスをする人じゃない。
作業中に手が止まることなんて、ほとんどない。
「……」
分かっている。
大丈夫じゃない。
昨日のことを引きずっている。
そんなの、見れば分かる。
けれど、声をかけるのが少し怖かった。
今、何を言っても間違えそうで。
「……」
数秒、迷う。
それでも。
「……葵先輩」
名前を呼ぶ。
その瞬間。
ペンの音が止まった。
「……何?」
返事は、少し遅れて返ってくる。
声は普通だった。
でも、“普通に作った声”だとすぐ分かった。
「……」
真守は、言葉を探す。
何を言えばいいのか分からない。それでも、昨日のことに触れなきゃいけない気がした。
「……昨日のことなんですけど」
その瞬間。
空気が変わった。
「……」
葵の手が止まる。
ペン先が、紙の上でぴたりと止まったまま動かない。
周囲の音だけが、妙に遠く感じる。
「……」
長い沈黙。
そして。
「……ごめんね」
ぽつりと、葵が言った。
「……」
真守は顔を上げる。
葵は視線を落としたままだった。
「昨日、感情的になっちゃって」
小さい声。
「奏にも迷惑かけたし……楽々浦くんにも、いっぱい気を使わせたし」
「……」
「全部、私のせいだったよね」
静かだった。
責めるような言い方じゃない。
でも、それが逆につらかった。
「……」
まるで、もう結論が決まっているみたいだった。
「私が余計なことしたから、全部変になった」
「……」
「私が勝手に焦って、勝手に近づいて……」
一つ一つ確認するみたいに、言葉が落ちていく。逃げ道を、自分で潰していくみたいに。
「……」
真守は何か言わなきゃと思う。でも、うまく言葉にならない。
「……自分は邪魔だよね」
その一言に、胸が詰まった。
否定しないといけない。
分かっている。
「……気にしなくていいです」
出てきた言葉は、それだった。
言った瞬間、自分でも分かった。
軽い。全然、足りない。
「……」
葵は、すぐには反応しなかった。
視線を落としたまま、小さく息を吐く。
「……」
“気にしなくていい”
それはつまり。
否定していない。違うって、言っていない。
「……」
静かに、何かが崩れていく。
そんな感覚があった。
「……」
葵が、ゆっくりと顔を上げる。
目が合う。
その目は、怒っていなかった。泣いてもいなかった。
ただ——
諦めていた。
「……」
真守の喉が詰まる。
ちゃんと否定すればいい。
違うって言えばいい。そんなこと思ってないって、そう言えばいいだけなのに。
「……」
言葉が出てこない。
頭の中で考えれば考えるほど、何も出てこなくなる。
「……」
沈黙だけが落ちる。
その沈黙が、答えみたいになっていく。
「……」
葵は小さく笑おうとした。
でも、うまく笑えていなかった。
「……やっぱり」
声は小さい。
それでも、はっきり聞こえた。
「……私、いない方がいいよね」
「……」
否定できなかった。
正確には——
否定しきれなかった。
迷った。
その一瞬が、致命的だった。
「……」
空気が変わる。
完全に。
「……」
葵は、それ以上何も言わなかった。
ただ静かに視線を落として、また作業へ戻る。
ペンが動く。
今度は止まらない。
でも、そこには感情がなかった。さっきまで残っていた揺れすら、もう消えている。
「……」
線を引かれた。
はっきりと。
もう、これ以上踏み込ませないように。
「……」
真守は動けなかった。
追いかけることも、言い直すことも、何もできない。
「……」
分かっている。
今、何か言わなきゃいけないことくらい。
でも。
「……」
言葉が出てこない。
怖かった。
ここで何かを言って、もっと傷つけるのが。
だから結局、何もできないまま。
「……」
隣にいるはずの距離が、ひどく遠かった。
近づこうとしていたはずなのに。
前よりも、ずっと遠くなっていた。




