141話 俺×空席=もう二度と届きません。
朝、教室に向かう足取りは、昨日より少しだけ軽かった。
理由は分かっている。
「……」
昨夜のやり取りが、頭の中に残っていた。
ベランダ越しに目が合った瞬間、真希那が慌てて部屋に引っ込んだあの間抜けな動き。
「……なんだよ、あれ」
思い出して、少しだけ口元が緩む。
電話ではあんなに強気だったくせに、実際に顔合わせた瞬間に逃げるとか意味が分からない。
「……」
でも。
あれを見て、少しだけ分かった気がした。
本気で突き放してるわけじゃない。
むしろ——
「……」
うまくやろうとして、全部空回りしてるだけだ。
「……ほんと、不器用だな」
小さく呟く。
それは、自分にも言えることだった。
「……」
まだ全部解決したわけじゃない。
でも——昨日よりは、マシだと思えた。
少なくとも、完全に壊れたわけじゃない。
「……ちゃんと話せば、戻れるかもな」
そんなことを、ぼんやり考えながら教室のドアを開ける。
そして——
「……」
視線が、止まった。
結城の席。
何も置かれていない机と、誰も座っていない椅子。
「……」
足が一瞬だけ止まる。
けれど、何も言わずにそのまま自分の席に座る。
「おはよー楽々浦!」
神宮丸がいつも通り声をかけてくる。
「おはよ」
自然に返す。
「昨日さ——」
どうでもいい話が始まる。
周りも、何も変わらない。
「……」
その“変わらなさ”が、妙に引っかかる。
「なあ」
神宮丸がふと口を止める。
「結城、今日も休みか?」
「……さあ」
短く返す。
「最近見なくね?」
「そうかもな」
それ以上は続かない。
ただの雑談で終わる。
「……」
誰も知らない。
当然だった。
あの事件も、病院のことも、結城が今どうなっているのかも。
何も。
「……」
知っているのは、自分だけだ。
「……」
ホームルームのチャイムが鳴る。
担任が入ってくる。
出席確認。
いつも通りの流れ。
そして——
「一つ連絡する」
担任が、少しだけ間を置く。
「結城だが——退学になった」
「……」
それだけだった。
理由も、説明もない。
「え?」
「なんで?」
「急じゃね?」
教室がざわつく。
「家庭の事情らしい。以上」
担任はそれ以上触れない。
本当に知らないのか、それとも深入りしないだけなのか。
どちらにしても——
どうでもよかった。
「……」
ざわつきは、すぐに収まる。話題は別のものへと移っていく。いつも通りの教室に戻る。
「……」
変わらない。
何も。
けれど——
「……」
確実に、一人いなくなっている。
「……」
視線が、またあの席に向く。
何もない机。そこに座っていたはずの人。
つい最近まで。
病室で、確かに話していた。
「……」
白い部屋。
消毒液の匂い。
機械の音。
弱々しい声。
そして——
『……バイバイ』
「……」
胸の奥が、じわりと痛む。
あの時、分かっていた。
なんとなくじゃない、ちゃんと、分かっていた。
あれは“またね”じゃない。
もう会えないっていう意味の、バイバイだった。
「……」
それでも、どこかで思っていた。
まだ、何かあるんじゃないかと。もう一度くらい、話せるんじゃないかと。
「……」
甘かった。
現実は、こんなにも簡単に終わる。
……退学。
小さく、心の中で呟く。
学校からも、街からも、完全にいなくなる。
もう——
会う理由すらなくなる。
「……」
前回、何も言えなかったことが、頭をよぎる。
バイバイに返事ができなかったこと。言葉が詰まって、何も返せなかった自分。
「……」
あの時、ちゃんと返していれば何か変わったのか。
そんなわけないと分かっている。
それでも——
「……」
考えてしまう。
「……」
前の席で、椅子がわずかに動く。
白ヶ崎だった。
「……」
一瞬だけ、結城の席を見る。
そして、小さく呟く。
「……やっぱり」
それだけだった。
「……」
説明はいらない。
分かっている。
全部。
「……」
それ以上は何も言わない。
踏み込まない。ただ、そこにいる。
その距離が、今はありがたかった。
「……」
授業が始まる。黒板に文字が書かれる。教師の声が響く。
「……」
何も入ってこない。
ただ、時間だけが進む。
窓の外を見る。
空は、変わらず晴れていた。何も知らないみたいに。
「……」
普通の一日。普通の教室。普通の時間。
その中で——
「……」
一人だけ、違う時間を生きている気がした。
ぽつりと、心の中で呟く。
(もう届かねぇんだな)
声には出さない。出したら、壊れそうだった。
「……」
机の上に置いた手に、少しだけ力が入る。
涙は、もう出ない。
その代わりに——
残っているのは、静かな痛みだった。
そして、その痛みだけが、確かに“本当だった”ことを教えていた。




