139話 俺×苛々=止まれません。
空き教室の空気は重く、さっきまでの騒がしさが嘘みたいに音が消えていた。
ドアの近くに立つ奏の存在だけが、その静寂を歪ませている。
ゆっくりと一歩、こちらに歩いてくる足音がやけに響いた。
「……お前さ」
低い声だった。
抑えている分だけ余計に刺さるその声に、真守は何も返せないまま視線を受け止めるしかなかった。
「あんな最低なことしておいて、そんな急に清々しい顔で私の妹に近づくなよ」
吐き捨てるようなその言葉で、空気が一気に冷え込む。
葵が小さく息を呑み、白ヶ崎もわずかに表情を固くしたのが分かった。
それでも真守は目を逸らさなかった。逃げる気は、なかった。
「それと」
奏がさらに一歩踏み込む。距離が完全にゼロになる。
「この前、言ったよな?殺すって」
その一言で空気が完全に凍りついた。
葵の目が見開かれ、白ヶ崎も一瞬だけ言葉を失う。その反応を見た瞬間、自分がどれだけ逸脱したことを言ったのかが、嫌でも突きつけられる。
胸の奥に、鈍い痛みが広がる。
それでも真守は小さく息を吐き、ようやく口を開いた。
「……この前のは、言い過ぎました。すみません」
視線は逸らさない。逃げないまま、言葉にする。
しかし奏の表情は微動だにしなかった。その沈黙が、何よりも重くのしかかる。
「本気で言ったわけじゃなくて……感情的になってて、その……流れで言っただけで……」
言い訳だと分かっていながらも言葉を繋げるが、
「やめろ」
短く遮られ、その一言で完全に言葉が止まった。
何も返せない。何も正当化できない。
その横で、白ヶ崎が静かに一歩近づき、迷いなく真守の隣に立つ。その存在が、かろうじて現実に繋ぎ止めてくる。
奏は一度視線を外し、今度は葵へ向けた。
「葵、こいつに近づくな」
命令だった。迷いのない拒絶。
その言葉を聞いて、真守はほんの一瞬だけ迷ったあと、小さく口を開く。
「……できれば、その方がいいと思います」
その一言で、葵の顔がはっきりと歪んだ。理解できないというより、受け入れたくないという表情だった。
そして次の瞬間、
「いい加減にして!」
叫びと同時に胸倉を掴まれ、視界が一気に近づく。
「なんでそんなこと言うの……!」
震えた声だった。怒りと悲しみと焦りが混ざった、まっすぐすぎる感情。
「もう一人で抱え込まないでよ……!楽々浦くんの辛い顔なんて見たくないの!辛くなるなら、一緒に辛くなりたいの!」
その言葉が真っ直ぐ刺さる。逃げ場がない。何も返せない。
言葉が出ないまま立ち尽くす真守の前で、息が詰まる。
その時、奏が動いた。
「やめろ」
低く言い、葵の手を掴んで無理やり引き剥がす。
バランスを崩した葵をよそに、奏の表情が一瞬だけ冷静さを取り戻したが、それもすぐに消えた。
「とにかく、今イライラしてる」
そう言い捨てると同時に、一歩踏み込み、拳を振り上げる。
「殺せるもんならやってみろよ」
そのまま振り下ろされる拳。
真守は動かなかった。避けることも、受け流すこともせず、そのまま受ける。
衝撃が走り、視界が揺れる。
それでも立ったまま、何も言わない。続く拳も同じように受け止める。
止めない。止める気もない。
「やめてください!!」
白ヶ崎が割って入り、奏の前に立ちはだかる。
「これ以上はやりすぎです」
怒りを含んだ声でそう言い切る。
「どけ」
「どきません」
一歩も引かない。
空気が張り詰める中、真守がゆっくりと前に出ると、そのまま膝をついた。
葵が息を呑む。
そのまま床に額をつけるように頭を下げる。
「……すみませんでした」
はっきりとした声だった。
「俺が全部悪いです。感情で動いて、余計なこと言って、傷つけて……本当に、すみません」
頭を下げたまま動かない。
沈黙が流れる。誰も動けない時間。
やがて奏は何も言わず背を向け、そのまま教室を出ていった。ドアが強く閉まる音だけが残る。
静寂。
葵が一歩前に出る。
「……楽々浦くん——」
その瞬間、白ヶ崎が前に出てその動きを止める。
「今は、近づかないでください」
低く、はっきりとした拒絶だった。
葵は何も言えず、その場で止まる。
空気が痛い。
真守はゆっくりと顔を上げ、小さく息を吐いた。
「……咲音、もういいよ」
そう言うと、ようやく白ヶ崎も少しだけ力を抜く。
それでも完全には引かないまま、真守のそばに立ち続ける。
「……すみません、葵先輩」
改めて言う。
「今日は、これ以上ちゃんと話せる状態じゃないです……また日を改めて話させてください」
葵は何も言えなかった。ただ、小さく頷くのが精一杯だった。
そのまま二人で教室を出る。
ドアが閉まり、足音が遠ざかる。
一人、残された葵はその場に立ち尽くす。
「……なんで」
小さく呟く。
「……私は、いつも……」
言葉が続かない。
うまくいかない。伝えたいのに伝わらない。支えたいのに、傷つけてしまう。
視界が滲む。
「……なんで、なの……」
その声は、誰にも届かないまま静かな教室に溶けていった。




