135話 俺×施設=もう引き返せません。
電車を降りた瞬間、空気が違った。
「……」
見慣れない街。
人通りはあるはずなのに、どこか静かで、音が遠い。
「……」
スマホで場所を確認する。
間違いない、ここだ。
「……」
歩き出す。
足取りは、自然と重くなる。目的地が近づくにつれて、胸の奥がざわついていく。
やめようと思えば、やめられる。今ならまだ、引き返せる。
「……」
でも——
足は止まらない。
やがて、目的の建物が見えてくる。
思わず、立ち止まる。
施設。
その一言でまとめられる場所。
けれど——
「……」
どこか、異質だった。
外観は普通だ。特別に荒れているわけでもない。でも、空気が違う。
近づくだけで、肌がざわつく。
ここに、祇園がいる。
「……」
小さく、息を吐く。
覚悟は、決めたはずだった。
それでも——
「……」
怖い。
正直に、そう思う。
それでも、前に進む。
入り口に向かい、扉を開ける。
「……」
中は、やけに静かだった。
受付へ向かう。職員らしき人が顔を上げる。
「……あの」
声をかける。
「祇園紅子さんに、面会をお願いしたいんですが」
名前を出した瞬間、ほんのわずかに空気が変わる。
「……楽々浦真守さん、ですね」
名前を言われ、一瞬言葉が止まる。
「……はい」
ゆっくりと頷く。
「お待ちしていました」
その言葉に、胸の奥がざわつく。
何かが引っかかる。けれど、それを深く考える余裕はなかった。
「こちらへどうぞ」
案内されるまま歩く。
廊下は長く、静かだった。足音だけが響く。
逃げ場がない。そんな感覚だけが、じわじわと広がっていく。
やがて、一つの扉の前で止まる。
「こちらでお待ちください」
「……はい」
ドアを開ける。
中は、簡素な面会室だった。
机と椅子だけ。余計なものは、何もない。
席に座る。
手が、少しだけ震えていた。
深呼吸をする。
落ち着け、ここまで来たんだ。
逃げない。全部、受け入れる。
そして——前に進む。
目を閉じ、覚悟を固める。
その時だった。
扉が開く音が、静かに響く。
ゆっくりと目を開ける。
視線の先にいたのは——祇園だった。
一瞬、誰か分からなかった。
やつれている。顔色は悪く、目の下には濃い隈。あの頃の余裕のある表情はどこにもない。
別人みたいだった。
祇園がゆっくりと歩いてくる。
椅子に座る。
そして——睨む。
鋭い視線。
それだけで空気が張り詰める。体がわずかに強張る。圧に押されそうになる。
それでも、口を開く。
「あの事件のこと」
声が少しかすれる。
「なんで、結城を襲ったんですか」
真っ直ぐに聞く。
祇園はすぐには答えなかった。
小さくため息をつく。
「なんで来ちゃったの」
ぽつりと、言う。
意味が分からない。
「……え」
思わず声が漏れる。
祇園は目を細める。
「楽々浦くん、来なきゃよかったのに」
言葉が、すぐには理解できない。
「これ以上知ったら、楽々浦くんが一方的に苦しくなるだけだよ」
その声は、責めるものじゃなかった。
むしろ、優しかった。
「今ならまだ引き返せる。何も知らなかったことにして、普通に学園生活送れるのに」
その意味は分かる。
分かってしまう。
体がわずかに震える。
怖い。
本当に。
それでも——
ゆっくりと顔を上げる。
「……もう、前に進むしかないんです」
はっきりと言う。
祇園が少しだけ目を見開く。そして、小さく笑った。
「そっか」
どこか安心したように。
「じゃあ、話すね」
祇園が静かに口を開く。
「あの事件は、私一人の意思じゃない」
その言葉に、やっぱりかという感覚が重なる。
「誰かに、指示されてた」
空気が一段重くなる。
「でも、誰かまでは言えない」
視線を逸らす祇園に、無理に踏み込めば壊れてしまうような危うさを感じる。
それでも、引くわけにはいかない。
「結城を襲った理由は」
問いを重ねると、祇園は一瞬目を伏せた。
迷っているのが分かる。
「……ちゃんと、聞きたいです」
静かに言うと、祇園はゆっくりと息を吐いた。
「結城さんは、私と一緒で誰かに指示されてた」
その瞬間、何かが繋がりそうになる。
「楽々浦くんを困らせるために」
さらに続く言葉に、理解が追いつかない。
「だから、楽々浦くんから離そうとした」
「……は?」
思わず声が漏れる。
意味が分からない。
祇園は苦しそうに笑った。
「分かるよ。私も分からなかったから」
その言葉は、どこか諦めに似ていた。
「最初は、どうにでもなれって思ってた」
視線を落としたまま続ける。
「でも、楽々浦くん見てたら目、覚めちゃってさ」
胸の奥がざわつく。
「でもね」
祇園が顔を上げる。
「どっちが本当の自分か分からなくなって、苦しくて」
その言葉は淡々としているのに、感情がそのまま滲んでいた。
まるで、自分の中に別の意思が入り込んでいるような歪さ。
それ以上、聞かせてはいけないと感じた。
「……もういいです」
言葉を遮る。
祇園が一瞬だけ驚いた顔をする。
それ以上踏み込めば、壊れる。そう確信していた。
少しの沈黙のあと、祇園がぽつりと口を開く。
「また、よかったら来て」
その声は、さっきまでより柔らかかった。
「話、聞きに」
自然と頷く。
「はい」
迷いはなかった。
祇園が小さく笑う。
「楽々浦くんの顔見てると、心落ち着くんだよね」
まっすぐに見られて、少しだけ息が詰まる。
「本当の自分でいられるっていうか」
返す言葉は見つからない。それでも、もう一度頷いた。
やがて、面会終了の声がかかる。
祇園が立ち上がる。
「じゃあね」
その一言に、何かが込められている気がした。
言葉を返そうとしても、喉が詰まる。
結局、何も言えずに頷くだけだった。
祇園が部屋を出ていく。
扉が閉まる音が、やけに重く響く。
一人残される。
すぐには動けなかった。頭の中が整理できない。それでも、ゆっくりと立ち上がる。
外に出ると、昼の光が眩しかった。少し目を細めながら、深く息を吸う。
まだ、分からないことだらけだ。
でも——確実に何かが繋がり始めている。
その感覚だけは、はっきりとあった。
スマホで時間を確認する。
まだ、戻れる。
一度、学校へ戻ろう。
そう決めて、歩き出す。
足取りは軽くはない。
それでも——止まらなかった。
前に進んでいる実感だけが、静かに残っていた。




