131話 俺×名前=初めて呼びます。
朝ごはんを食べ終えて、少しだけ落ち着いた空気が流れていた。
「……」
箸を置く。
食器の音が、小さく響く。
向かいには白ヶ崎。いつも通りの顔で、普通に座っている。
「……」
不思議な、この感じ。
昨日までのことが、全部遠くにあるみたいで——でも、消えたわけじゃない。
ちゃんと、そこにある。
「……」
胸の奥に残っている感覚。
あの病室。
結城の言葉。
最後の——
「……」
思考が、止まる。
「……ね」
白ヶ崎の声で、引き戻される。
「ぼーっとしてるけど、大丈夫?」
「……ああ」
短く返す。
「……」
少しだけ、息を吐く。
「……やることは、決まってる」
ぽつりと、口にする。
白ヶ崎が、少しだけ首を傾げる。
「やること?」
「過去のこと、ちゃんと調べる」
言葉にすると、少しだけ実感が湧いた。
「……俺が何を忘れてるのか、結城が何に巻き込まれてたのか」
ゆっくり、言葉を繋ぐ。
「全部、はっきりさせたい」
「……」
白ヶ崎は、黙って聞いている。
茶化さない、否定もしない。ただ——受け止めている。
「……」
少しだけ、視線を逸らす。
「……正直、怖いけど」
本音だった。
「また、何か思い出したら……」
その先は、言えなかった。
でも——
「それでも、やらないと」
最後は、ちゃんと前を見る。
「……そっか」
白ヶ崎が、小さく頷く。
「いいと思う」
あっさりと。
「……」
拍子抜けするくらい、あっさり。
「もっと止めるかと思った」
「なんで?」
「いや……危ないとか」
「危ないよ」
即答だった。
「……は?」
「普通に危ないでしょ」
さらっと言う。
「でも」
一拍置いて——
「一人でやるなら、止めてた」
「……」
言葉が、止まる。
「一緒にやるなら、別にいい」
当たり前みたいに言う。
「私もいるし」
「……」
その言葉が、すっと入ってくる。
重くない。でも、ちゃんと支えになってる。
「……ありがと」
自然と、口に出ていた。
「どういたしまして」
白ヶ崎は、軽く肩をすくめる。
そして——
「ただし」
指を一本、立てる。
「条件がある」
「……条件?」
嫌な予感しかしない。
「なに」
「簡単なこと」
さらっと言う。
「私のこと」
一瞬、間を置いて——
「咲音って呼んで」
「……」
思考が、止まる。
「……は?」
「だから、咲音って呼んで」
もう一回言われた。
「……それだけ?」
「それだけ」
即答。
「……」
なんだそれ、となるような条件。もっと、重い条件とか来るのかと思ってた。
「……いいけど」
軽く返す。
「ほんと?」
「いや、別にそれくらいなら——」
「じゃあ今呼んで」
食い気味だった。
「……今?」
「今」
逃がさない目。
「……」
沈黙がさらに緊張を強める。
(なんでこんな緊張してるんだ俺)
「……」
一回、深呼吸。
「……さ」
喉が、変に詰まる。
「……さ、咲音」
言えた。
けど——
「……」
ぎこちない。
めちゃくちゃぎこちない。
「……」
白ヶ崎が、じっと見てくる。
「……なに」
「今の、なし」
「は?」
即否定された。
「ぎこちなすぎ」
「いや初めてなんだからしょうがないだろ!」
「しょうがなくない」
真顔で言われる。
「もっと自然に」
「無理だろ!」
「無理じゃない」
「無理だって!」
「はいもう一回」
「え?」
「咲音って呼んで」
逃がす気ゼロ。
「……」
なんなんだこれ。
「……さ、咲音」
「はいダメ」
「はやっ!?」
「全然ダメ」
「どこが!?」
「気持ちがこもってない」
「なんだよ気持ちって!」
「いいからもう一回」
「は!?」
「はい、どうぞ」
完全に遊ばれている。
「……」
でも——
「……咲音」
少しだけ、力を抜いて言ってみる。
「……」
白ヶ崎が、じっと見る。
「……」
数秒の沈黙。
「……まあ、さっきよりはマシ」
「上からだな!?」
「でもまだダメ」
「まだかよ!?」
「慣れるまで続けるから」
「はあ!?」
その後も白ヶ崎は、止まらずにさらっと言う。
「今日一日、ずっと名前呼びね」
「罰ゲームじゃねぇか!」
「違う、練習」
「同じだろ!」
「ほら、もう一回」
「やらねぇよ!」
「咲音」
「なんでお前が言うんだよ!」
完全にペース握られてる。
「ほら」
ニヤッと笑う。
「呼んでみて?」
「……っ」
なんでこんなことになってるんだ、と心の中で思う。
でも——
「……咲音」
今度は、少しだけ自然に出た。
「……」
白ヶ崎は、少しだけ満足そうに頷く。
「よし」
「何がよしだよ……」
思わず頭を抱える。
「今日はそれでいくから」
「マジかよ……」
「マジ」
即答。
「……」
ため息をつく。
でも——
「……」
少しだけ、笑いそうになる。
さっきまで考えてた重いこと。全部じゃないけど、少しだけ遠くにいった気がした。
「……」
自分の理想としている日常とは、程遠くなっている。だけど、その中でも心が落ち着く瞬間が何度もあると実感していた。
「……咲音」
ぽつりと呼ぶ。
「なに?」
すぐに返ってくる。
「……なんでもない」
「なにそれ」
少しだけ、不満そうな顔。
「……」
でも、その顔が——少しだけ、安心できた。
「……」
やることは、決まっている。
全部、これからだ。
でも——
一人じゃない。
それだけで、少しだけ前を向けた気がした。




