126話 俺×バイバイ=もう二度と届きません。
息を呑む、というのは多分こういうことを言うのだと思った。
病室に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった気がした。外の廊下とは温度も匂いも違う。静かで、白くて、どこか時間が止まっているみたいな空間。その真ん中に置かれたベッドの上で、結城は上半身を少し起こしたまま、窓の方を見ていた。
「……」
声が、すぐには出ない。
ついさっきまで、会うかどうかすら迷っていたはずなのに、いざ目の前にすると何を言えばいいのかわからなくなる。
ベッドの脇にある機械の音だけが、やけに規則的に耳に残る。ピッ、ピッ、と一定の間隔で鳴るその電子音が、逆にこの空間の現実感を強めていた。
「……結城」
小さく名前を呼ぶ。
結城がゆっくりとこちらを向く。
その目に光がない、と最初に思った。
生気がないとか、意識が曖昧だとか、そういう単純な話じゃない。そこにちゃんと目はある。
こちらを見ている。けれど、その奥にあるはずの何かが、すっかり擦り切れてしまっているように見えた。
「……」
喉が、ひどく乾く。
それでも、何か言わなければならない気がした。
「……体調、大丈夫か」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
あまりにも普通で、あまりにも情けない言葉だった。
もっと聞くことがあるだろう。もっと言うべきことがあるだろう。頭ではそう思うのに、いざ口を開くとそんなことしか言えない。
けれど、結城は何も答えなかった。
「……」
ただ、じっとこちらを見ている。
反応がない。
返事もない。
その沈黙が怖くて、真守は少しだけ足を動かした。病室の床は妙に硬い音がした。恐る恐る、ベッドの方へ近づく。
あと一歩で、ベッドのそばに着く。
その距離になって、ようやく結城の顔がはっきり見えた。
頬のあたりに残るうっすらとした痣。首元まで上がった病衣の隙間から見える、まだ消えきっていない赤い跡。包帯の下に隠されているであろう傷の存在が、見えないのに見えてしまう気がして、目を逸らしたくなる。
その時だった。
結城の目から、静かに涙がこぼれた。
「……え」
あまりにも唐突だった。
声もなく、表情も大きく変えずに、ただ涙だけが頬を伝って落ちていく。
「……お、おい」
頭が追いつかない。
泣かせたのかと思った。
自分が来たからか。自分の顔を見たせいで、余計なことを思い出させたのか。
「ごめん……俺が来たからか」
思わずそう口にすると、結城はゆっくりと首を横に振った。
それから、ひどく掠れた声で言った。
「……違う」
一言だけなのに、その声は今にも消えてしまいそうに弱かった。
「……会いたかった」
「……っ」
息が詰まる。
その言葉が、予想していたどんな返事よりも真っ直ぐで、重かった。
「……」
何も返せない。
自分の中で何かがうまく噛み合わなくなる。
"会いたかった"結城はそう言った。こんな状況で、あんな目に遭って、それでも最初に出てくるのがその言葉なのかと、動揺と戸惑いが一気に押し寄せてくる。
けれど、結城はそのまま淡々と話し始めた。
まるで、ここで止まったらもう最後まで言えなくなると分かっているみたいに。
「うち……あの日、体育館倉庫に連れてかれてから……最初は、ただ脅されるだけかと思ってた」
言葉の一つ一つが遅い。
けれど、その分だけ妙に鮮明だった。
「でも……違った。いきなり、床に倒されて……抵抗したら、髪掴まれて……そのまま、何回も顔、叩かれて」
「……」
喉の奥が痛くなる。
「息できなくて……何が起きてるか分かんなくて……でも、止まんなくて」
結城の指先が、小さく震えていた。
「蹴られて……腕、押さえつけられて……動けなくて。服、引っ張られて……破れて……それで……」
そこまで言って、結城は一度だけ目を閉じた。
思い出しているのが分かる。
見えてしまっているのが分かる。
「……やめてって言ったのに、笑ってた」
小さな声だった。
「痛いって言っても、もっと痛くしてやるって……そういう顔してた」
「……結城」
「地面に頬つけられて……冷たくて……でも、それより痛い方が強くて……どこ殴られてるのかも、もう分かんなくなって」
真守の指先が、勝手に強く握られる。
止めろ、と思う。
それ以上言わなくていいと、言いたい。
けれど、言葉が出てこない。
「……途中から、うちも変になってた。これ、終わるのかなって……このまま終わるのかなって、そればっか考えてた」
結城はそこまで言って、薄く笑おうとした。
笑えていなかった。
「……ごめん、俺のせいで」
真守の口から、ようやくそれだけが出た。
それでも、結城は首を振る。
「でも、来てくれた」
「……」
「あなたが来てくれたから……終わった」
その言葉と一緒に、また涙がこぼれる。
「……ありがとう」
真っ直ぐに言われて、真守は思わず目を逸らした。
胸の奥が、ひどく痛かった。
「……もっと早く助けられなくて、ごめん」
それは、ずっと喉の奥に引っかかっていた言葉だった。
あの時、あの場所に辿り着くのがもっと早ければ。赤坂とぶつかっていなければ。白ヶ崎から聞いた瞬間に、もっと冷静に動けていれば。
全部、遅かった。
その全部が、今も胸のどこかに刺さったまま抜けない。
「……ごめん」
もう一度言う。
結城は少しだけ目を細めて、それから小さく首を横に振った。
「……謝らないで」
そう言ったあと、結城の表情が少しだけ変わる。
迷いの色だった。
何かを言うと決めた人間の、最後のためらいのようなものが、一瞬だけ顔をよぎる。
「……うち」
結城が息を吸う。
「本当は……あなたとは、昔からの仲じゃないの」
「……」
頭の中で、音が止まる。
何を言われたのか、一瞬で理解できなかった。
「……は?」
ようやく出た声は、ひどく間の抜けたものだった。
「……何、言って」
思考がそこで止まる。
昔からの仲じゃない。
じゃあ、あれは何だ。
結城が今まで話していたことは。小学校のことは。公園のことは。
「……うちも、こんなことしたくなかった」
結城は真守の混乱には構わず、言葉を続けた。
「したくなかったけど……でも、助けてくれて……やっと、目が覚めた」
「……」
「こんなうちを……助けてくれる人なんて、いないと思ってた」
結城の声が、少しだけ震える。
「うち、自分で自分のこと、もうどうでもよくなってたから」
「……」
そこでようやく、止まっていた思考が少しだけ動き出す。
昔からの仲じゃない。
それでも近づいてきた。
それでも“ゆーちゃん”のことを知っていた。
「……それって」
喉が渇く。
「つまり……」
最後まで言えなかった。
言いたくなかったのかもしれない。
けれど、結城は黙って頷いた。
「……」
胸の奥で、何かが冷たく沈んでいく。
「……誰かに、指示されてたのか」
ようやく絞り出した言葉だった。
結城はすぐには答えなかった。
目を伏せて、唇を小さく噛む。その反応だけで十分だった。
「……」
「……誰に」
聞いた瞬間、自分の声が思った以上に冷静だったことに気づく。
混乱している。苛立っている。理解も追いついていない。
それでも、それらを無理やり押し込めて、真守はもう一度聞いた。
「誰に言われた」
結城の肩が、わずかに震える。
「……それ言うと」
声が、掠れる。
「うち……本当に、いなくなっちゃうかもしれない」
「……」
真剣だった。
冗談でも脅しでもなく、本気でそう思っている顔だった。
「……」
真守は何も言えなくなる。
ここで無理に聞き出したところで、結城を追い詰めるだけなのかもしれない。頭ではそう思う。
けれど、聞きたいことは山ほどある。何のために。どこまでが本当で、どこからが嘘だったのか。
全部ぐちゃぐちゃだった。
「……もう、どのみち、この街にはいられないけどね」
結城がぽつりと言う。
「少し経ったら……転校か退学ってことになるかもしれない」
あまりにも軽く言うから、一瞬意味が入ってこなかった。
けれど、数秒遅れてその意味が胸に落ちてくる。
もういなくなる。
この街から。
学校から。
「……」
何か言わなければ、と思う。
大丈夫だとか、そんなのどうにかなるとか、適当でも何でもいいから言葉を返さなければいけない気がする。
けれど、何も出てこない。
今の結城に向かって言えることなんて、一つも持っていなかった。
そんな真守を見て、結城は少しだけ寂しそうに笑った。
それから、真っ直ぐに真守を見た。
「……あなたは」
涙が、また零れる。
「うちみたいになっちゃダメだよ」
「……」
その一言が、まっすぐすぎて痛かった。
答える言葉は見つからない。
だから、黙って頷くことしかできなかった。
結城の言っている意味が、分かる気がした。
流されて、誤魔化して、気づいた時には自分が自分じゃなくなっているようなあの感覚。最近の自分にも、少しだけ似たものがあった。
「……」
心のどこかで、理解してしまう。
もう、結城に会えないかもしれない。
いや、多分——会えない。
その事実が、ようやく現実として胸に落ちてきた。
病室の時計の針が、静かに進んでいく。面会終了の時間が近づいていることが、嫌でも分かった。
それに気づいたのか、結城は小さく息を吸った。
「……最後に、言っていい?」
「……ああ」
掠れた声で返す。
結城は涙で濡れた目のまま、それでも真っ直ぐに真守を見た。
「うち、本気であなたのこと好きになった」
「……っ」
息が止まる。
「真っ直ぐなとことか、すぐ顔に出るとことか……馬鹿みたいにすぐ助けようとするところとか」
一つ一つ、数えるように言う。
「そういうの、全部」
結城の目から、また涙が落ちる。
「普通に学校で出会って、普通に授業受けて、普通に放課後出かけて、普通に笑って……普通に、あなたのこと好きになりたかった」
「……」
その言葉が、胸の奥に深く刺さる。
あまりにも、当たり前すぎる願いだった。
でも、だからこそ痛かった。
普通に出会って、普通に話して、普通に笑って、普通に好きになる。
そんなものは、どこにでもある当たり前のはずなのに、この二人にはもう届かない。
「……」
視界が滲む。
気づいた時には、真守の目からも涙が落ちていた。
一度落ちると、止まらなかった。
「……っ」
唇を噛んでも、意味がない。
涙はどんどん溢れてくる。
目の前で泣いている結城につられたのかもしれない。けれど、それだけじゃなかった。
悔しさも、悲しさも、どうしようもなさも、全部混ざっていた。
「……」
何か言いたい。けれど、言葉にならない。
その時、病室の外から控えめなノック音がした。面会時間の終わりを告げる音だった。
「……」
もう、終わりだ。
そう思った瞬間、結城が小さく笑った。
泣いたままの、不格好な笑顔だった。
「……バイバイ」
その一言が、病室に落ちる。
「……」
真守は何も言えなかった。
言えるはずがなかった。
そのバイバイの意味が、分かってしまったからだ。
またね、じゃない。
次も会おう、でもない。
本当に、これで最後なんだと。
もう一生、会えないかもしれないからこその、バイバイだった。
だから——真守は、その言葉を返せなかった。
喉の奥で何かが詰まって、どうしても音にならない。
ただ、唇だけが震える。
「……」
結局何も言えないまま、真守は一歩下がった。
そして、そのまま病室を出た。
ドアが閉まる。
それで、本当に終わってしまった気がした。
「……っ」
廊下に出た瞬間、また涙が溢れる。
止めようとしても止まらない。
呼吸までおかしくなりそうで、壁に手をつく。
その時だった。
「……真守くん?」
白ヶ崎の声。
顔を上げると、病室の前で待っていた白ヶ崎がこちらを見ていた。
真守の顔を見た瞬間、その表情が少しだけ変わる。
驚いたのが分かった。
多分、こんなふうに泣いているとは思っていなかったのだろう。
「……」
けれど、白ヶ崎は何も聞かなかった。
何があったのかも、結城が何を言ったのかも、何一つ聞こうとしなかった。
ただ、少しだけ近づいてきて、静かに言った。
「……帰ろっか」
それだけだった。
それだけなのに、その声がやけに優しくて、真守は何も言えなくなる。
ただ、小さく頷くことしかできなかった。
涙はまだ止まっていない。
胸の奥もぐちゃぐちゃのままだった。
それでも——
白ヶ崎のその一言だけが、今の自分をかろうじて繋ぎ止めてくれている気がした。




