119話 俺×個室=とても心が楽です。
教室の前まで来て、足が止まった。
扉の向こうから聞こえてくるざわめき、笑い声、机が引かれる音。全部、ほんの少しだけ遠く感じる。
「……」
入ろうと思えば入れる。
けれど、手は動かなかった。
理由はわかっている。
——面倒くさいからだ。
誰かと顔を合わせるのも、気を遣うのも、何かを聞かれるのも、全部。
小さく息を吐いて、踵を返す。
向かう先は決まっていた。
生徒会室。
扉を開けると、いつも通りの空気がそこにあった。ただ、その中心にいるはずの人の存在だけが、やけに強く感じられる。
「おはよう、楽々浦君」
会長が、こちらを見て微笑む。
その声だけで、少しだけ肩の力が抜けた気がした。
「……おはようございます」
軽く返すと、会長はゆっくりと立ち上がる。
「昨日言ったこと、覚えているかな」
「……はい」
「なら、ついておいで」
それ以上の説明はなかった。
そのまま歩き出す会長の後ろを、何も考えずについていく。
廊下を抜けて、階段を上がり、さらに奥へ。普段はほとんど使われていない廊下だった。
静かすぎるくらいに、音がない。
その先で、会長が一つの扉の前で立ち止まる。
「ここだよ」
鍵を開けて、扉を開く。
「……」
中は、想像していたよりもずっと整っていた。
机と椅子。書類棚。必要最低限のものだけが揃っている。
無駄がない。
そして——静かだった。
外の音が、ほとんど入ってこない。
「ここなら、誰にも邪魔されない」
会長が穏やかに言う。
「君が望んでいた環境だ」
「……」
言葉が、すぐには出てこなかった。
ただ一歩、中に入る。
ドアが閉まる。
それだけで、外と切り離された感覚があった。
「……いいですね」
自然と、そう口にしていた。
会長は満足そうに頷く。
「だろう?君には、こういう場所の方が合っている」
否定されない。
ただ、それだけで——
「……はい」
頷いてしまう自分がいた。
「無理はしなくていい。君は君のペースでやればいい」
そう言い残して、会長は部屋を出ていった。
一人になる。
「……」
静かだった。
驚くほどに。
椅子に座り、目の前の書類に手を伸ばす。
ページをめくる音だけが、小さく響く。
誰もいない。話しかけてくる人もいない。
気を遣う必要もない。
「……楽だな」
ぽつりと呟く。
その言葉が、妙にしっくりきた。
——ここなら大丈夫だ。
そんな感覚が、自然と胸に広がっていく。
それから、どれくらい時間が経ったのか。
気づけば、作業は驚くほど進んでいた。
集中できている。無駄な思考が入らない。
感情も、余計なことも、全部切り離されているみたいだった。
「……」
これでいい。
これが、一番効率がいい。
誰も傷つけない。誰にも、傷つけられない。
その途中で、一度だけ扉がノックされた。
「順調そうだね」
会長だった。
「……はい」
「顔もいい。無理をしているようには見えない」
穏やかな声。
「君はちゃんとやれているよ」
その言葉に、少しだけ胸が軽くなる。
「……ありがとうございます」
「何かあれば、すぐに言ってくれ」
それだけ言って、会長はまた去っていく。
「……」
一人。
また、静けさが戻る。
けれどそれは、嫌なものじゃなかった。
むしろ——
「……落ち着く」
そう思ってしまう自分がいた。
気づけば、放課後になっていた。
部屋を出ると、外の空気が少しだけ重く感じる。
さっきまでの静けさが、嘘みたいだった。
生徒会室には寄らず、そのまま帰ることにする。
廊下を歩きながら、ぼんやりと考える。
「……」
今日は、誰ともほとんど話していない。
それなのに、不思議と気は楽だった。
イライラもしない。余計なことも考えない。
「……これでいいだろ」
小さく呟く。
それが正しいかどうかは、わからない。
でも、少なくとも——今は楽だった。
下駄箱まで来た時だった。
「……あ」
聞き慣れた声。
顔を上げると、そこに白ヶ崎がいた。
「真守くん」
軽く手を振る。
「……白ヶ崎さん」
「今帰り?」
「まぁ」
短く返す。
白ヶ崎は少しだけこちらを見て、それからいつも通りの距離感で隣に立った。
何かを聞いてくるわけでもない。踏み込んでくるわけでもない。
ただ、そこにいる。
「……最近さ」
ぽつりと白ヶ崎が言う。
「全然教室来ないね」
「……そうだな」
「ふーん」
それ以上は追及しない。
けれど、視線だけは少しだけ長くこちらに残る。
——わかってる。
多分、何かしらは察してる。
それでも、何も言わない。
「……」
その距離が、少しだけ楽だった。
「何してたの?」
「生徒会」
「そっか」
軽い会話。
いつもと変わらないやり取り。
なのに、少しだけ違う気がするのは、自分のせいだろうか。
「……」
白ヶ崎が、ふと視線を逸らす。
少しだけ間が空く。
そして——
「……なんかさ」
小さく呟くように言った。
「今の真守くん、つまんない」
「……は?」
思わず声が出る。
あまりにも唐突だった。
「なんだよそれ」
少しだけ眉を寄せる。
白ヶ崎は肩をすくめる。
「別に深い意味ないけど」
「……」
「前の方が、もうちょいマシだった気がする」
さらっと言う。
悪気もなさそうに。
ただの感想みたいに。
「……」
言い返そうとして、言葉が出てこなかった。
「ま、いいけど」
白ヶ崎はそれ以上何も言わず、靴を履き替える。
「じゃ、また明日」
軽く手を振って、そのまま去っていく。
「……」
その背中を、少しだけ見送る。
何も残さなかったようで——
何かだけは、確かに残していった。
「……」
小さく息を吐く。
頭の中に、さっきの言葉が残る。
——つまんない。
「……別にいいだろ」
そう呟く。
すぐに切り替えるように、視線を前に戻す。
あの部屋のことを思い出す。静かで、誰もいなくて、楽で。
「……あそこがあれば」
それでいい。
そう思いながら、真守はゆっくりと歩き出した。




