118話 俺×嫌悪感=壊れているのは誰ですか。
廊下を歩く足音が、やけに響いていた。
放課後の校舎は人が少なく、静けさが広がっている。その中を、一人で歩いているだけなのに、なぜかその静けさが重く感じられた。
「……」
さっきのやり取りが、まだ頭の中に残っている。
葵の表情、あの目。何も言えなかったあの空気。それでも——不思議と、さっきまで感じていた重さは少しだけ軽くなっていた。
「……なんでだよ」
小さく呟く。
理由は、分かっている。会長の言葉だった。「君は間違っていない」ただそれだけの言葉。
それなのに、胸の奥に溜まっていたものが少しだけ解けた気がした。
「……」
視線を落とす。
さっき流れた涙の理由も、分かっている。本当は、こんな自分は嫌いだった。
イライラして、当たって、誰かを傷つける自分なんて、認めたくなかった。
誰も傷つけたくないはずなのに、気づけば全部逆のことをしている。
「……」
祇園の事件。あの時、ほんの少しだけ戻った記憶。
それからだ。何かが、少しずつズレている感覚がある。
うまく言葉にはできないけれど、前と同じ自分ではいられなくなっているような、そんな違和感がずっと残っていた。
考えを振り払うように、歩き続ける。
その時だった。
「……」
視界の先に、人影が見える。
立ち止まる。
その人物も、動かない。
そして——
「……」
完全に道を塞ぐように、目の前で仁王立ちしていた。
奏だった。
「……」
何も言わない。
ただ、じっとこちらを見ている。
その視線が、明らかに普通じゃないことはすぐに分かった。
「……」
真守は何も言わず、そのまま横を通り過ぎようとする。
その瞬間——
「おい」
低い声。
次の瞬間、胸倉を強く掴まれた。
「……」
体が止まる。
「おまえ」
顔を近づけられる。
「葵になんかしただろ」
圧が強い。
問い詰めるというより、断定だった。
「……」
目を合わせない。
そのまま、無言で視線を逸らす。
「……なんだその態度」
さらに力が強くなる。
「……別に」
小さく、返す。
「関係ないでしょ」
挑発するように。
自分でも分かるくらい、余計な言葉だった。
「……あ?」
空気が変わる。
それでも、止まらない。
止められない。
「自分が泣いたからって、姉に頼るのかよ」
言った瞬間、自分でも分かった。
——最悪だ。
思ってもいない。なのに、口が勝手に動く。
「……」
奏の表情が、完全に変わる。
怒りが、はっきりと乗る。
「おまえ」
声が低くなる。
「次、同じこと言ったら——殺すぞ」
一歩、踏み込む。
距離が詰まる。その圧だけで、普通なら動けなくなるはずだった。
「……」
それでも——
口が、止まらない。
「……やれるもんなら、やってみろよ」
小さく、呟く。
その瞬間だった。
奏の拳が振り上げられ、迷いのない動きで、そのまま——振り下ろされる。
「……」
瞬間、体が動いた。
考えるより先に。流れるように、腕を動かす。
拳を受け流し、力の方向を逸らす。
そのまま——
一歩踏み込み、拳を突き出す。
止める。
奏の顔面、寸前で。
「……っ」
風だけが、頬をかすめる。
あと数センチ。それだけで、当たっていた。
「……」
奏の目が、見開かれる。
さっきまでの圧が、一瞬だけ消える。
驚き。
そして——ほんの少しの恐怖。
「……」
そのまま、動かない。
動けない。
「……次、同じことやったら」
静かに、言う。
「殺しますよ」
自分でも驚くくらい、冷たい声だった。
拳を引く。
そのまま、背を向ける。
「……」
何も言わない。
何も振り返らない。
ただ、その場を離れる。
背中に視線を感じたまま廊下を歩く。
さっきよりも、静かだった。
「……」
胸の奥が、ざわつく。
何かが、おかしい。
分かっている。それでも——止まらない。
そのまま家に帰り、玄関を開ける。
「……」
静かだった。
昨日と同じ。いや、昨日よりも。
「……」
靴を脱ぐ音だけが響く。
返事はない。気配もない。
「……はぁ」
小さく息を吐く。
キッチンに向かう。
冷蔵庫を開けが、何も作る気になれない。
目に入ったのは、カップラーメン。
それを手に取る。
「……」
これでいいか。
そんなことを思いながら、ぼんやりと立ち尽くす。
「……」
何もない空間。
静かすぎる部屋。
その中で、ただ一人。
「……」
ふと、手が止まる。
それでも——
何も考えないようにする。
そのまま、真守はポットに手を伸ばした。




