117話 俺×優しさ=それが正しいとは限りません。
放課後の生徒会室は、昼間とは違う静けさに包まれていた。
人はいる。いつも通りのメンバーがいて、それぞれが作業をしている。けれど——会話がない。
必要最低限のやり取りだけ。
それ以外は、沈黙。
「……」
椅子に座りながら、手を動かす。
紙の音、ペンの音、時計の針。
どれも、やけに耳に残る。
——さっきの空気が、まだ残っている。
葵と目が合うことはなかった。
意識しているのは、自分だけじゃない。それが分かるから、余計に息苦しかった。
「……」
作業は、終わっていた。
とっくに。
それでも、立ち上がる気にはなれない。立ち上がった瞬間に、何かが起きる気がした。
そんな、意味の分からない予感。
「……帰るか」
小さく呟いて、立ち上がる。
荷物をまとめる。逃げるように。
そのまま、生徒会室を出ようとした——
「……楽々浦くん」
声が、かかる。
背中に直接届き、足が止まる。
「……」
振り返らない。
けれど、止まってしまった時点で、もう逃げきれないことは分かっていた。
「……何ですか」
ぶっきらぼうに返す。
「ちょっといい?」
「よくないです」
即答だった。
間もなく。
「帰るんで」
そのまま歩き出そうとする。
「待って」
一歩、近づく気配。
「……少しでいいから」
その声は、強くなかった。
むしろ、抑えているようだった。
それが——余計に、引っかかる。
「……」
舌打ちしそうになるのを堪える。
振り返る。
「……何ですか」
目が合う。
葵の目は、真っ直ぐだった。逃げていない。
「……さっきのこと」
「もういいって言いましたよね」
被せるように言う。
「それ以上話すことないんで」
「あるよ」
はっきりと返ってくる。
「楽々浦くんが、そのままでいいわけない」
その言葉に、何かが弾けた。
「……は?」
低く、漏れる。
「何なんですか、さっきから」
「心配してるだけ」
「いらないですよ」
即答だった。
「そういうの」
空気が、変わる。
「……」
葵が、少しだけ言葉に詰まる。
それでも、引かなかった。
「……いらないって、どういう意味」
「そのままの意味ですけど」
肩をすくめる。
「俺のこと、放っといてください」
「放っておけるわけないでしょ」
「だから、それがウザいって言ってんですよ」
言った瞬間、分かる。
言い過ぎた。けれど、止まらない。
止められない。
「……っ」
葵の表情が、わずかに揺れる。
それでも、まだ踏みとどまっている。
「……楽々浦くん」
声が、少しだけ震えていた。
「そんな言い方——」
「どいつもこいつもウゼェんだよ」
遮る。
完全に。
空気が、凍る。
「……」
言葉は、もう止まらなかった。
「俺のこと何も知らないくせに……分かったような顔して、勝手に踏み込んでくんなよ」
静かに、吐き出す。
冷たい言葉を、そのまま。
「……」
葵の目が、揺れる。
はっきりと分かるくらいに、涙が、滲んでいた。
それでも——
「……それでも」
声を出す。
諦めきれないように。
「私は——」
「もういいです」
被せる。
聞く気はなかった。
聞ける状態じゃなかった。
「……」
一瞬、沈黙。
そのまま、背を向ける。
「……帰ります」
歩き出そうとした、その時だった。
「——楽々浦君」
低い声が、空気を切る。
反射的に、体が止まる。
会長だった。
「……」
いつの間にか、そこに立っていた。
気配すら感じなかった。
「……お疲れ様です」
反射的に言う。
それ以上は、何も言わない。
そのまま出ようとする。
「待て」
一言だった。
それだけで、足が止まる。
「……」
帰りたい。
頭では、そう思っている。けれど——動けない。
空気が、重い。圧が、違う。
「……何ですか」
絞り出すように言う。
会長は、ゆっくりと口を開いた。
「楽々浦君」
穏やかな声だった。
「少し、話を聞かせてくれないか」
「……関係ないですよね」
すぐに返す。
その一言で、場が凍る。
けれど——
会長だけは、変わらない。微笑すら浮かべている。
「それは、話してみないと分からないよ」
優しく、諭すように言う。
「……」
言葉が詰まる。
否定しきれない。
その空気に、飲まれる。
「……」
視線を落とす。
少しだけ、口を開く。
全部は話さない。話せるわけがない。
それでも——
断片的に。
結城のこと。過去に会っていたかもしれないこと。赤坂との関係。
曖昧なまま、言葉を繋げる。
「……って感じです」
最後は、小さく。
吐き出すように。
「……なるほど」
会長は、静かに頷く。
そして、ゆっくりと距離を詰める。
目の前に立つ。逃げ場がない。
「君は、間違っていないよ」
否定はせずに、優しく言う。
「ただ、今は少し混乱しているだけだ」
その言葉が、すっと入ってくる。
抵抗できないくらい、自然に。
「……」
視界が、揺れる。
気づけば——
一筋、涙がこぼれていた。
「……」
自分でも、驚く。
止めようとしたのに、止まらない。
「大丈夫だ」
会長が、続ける。
「無理に整理する必要はない」
「……」
顔が、歪む。
抑えきれない何かが、溢れそうになる。
その時だった。
「……楽々浦くん」
後ろから、声。
葵だった。
「……私にも、頼ってほしい」
静かに。
それでも、はっきりと。
「……」
ゆっくりと、振り返る。
目が合う。
その瞬間——
何かが、冷めた。
「……会長の話、聞いてましたか?」
低く、言う。
「俺は今、一人になりたいんで……邪魔しないでください」
完全に、突き放す。
「……」
葵が、動かない。
言葉も、出ない。
ただ——呆然と立ち尽くしている。
「……」
会長が、横から口を開く。
「夢百合君」
穏やかな声。
それが、逆に冷たい。
「君は、楽々浦君の何なんだい?」
その一言で——
葵の目から、涙がこぼれた。
「……っ」
何かを言おうとして。
言えないまま。
そのまま、背を向け、走るように生徒会室から出ていった。
扉が、強く閉まる。
「……」
静寂。
何も言えなかった。
「……楽々浦君」
会長が、もう一度声をかける。
「君が一人になれる空間は、僕の方で用意しておく」
優しく。
当たり前のように。
「安心してくれ」
それだけ言って、会長もその場を離れる。
足音が遠ざかる。
完全な静寂。
「……」
一人、残される。
何もない空間。さっきまであったはずの気配が、全部消えている。
胸の奥が、妙に軽い。
それなのに——
どこか、空っぽだった。
「……」
何も考えたくない。
考えられない。
ただ——
その場に立ち尽くしたまま。
動けなかった。




