116話 俺×静かな違和感=崩れ始めている気がします。
朝、目を覚ました時、最初に感じたのは静けさだった。
いつもなら、どこかから物音がする。キッチンの音だったり、声だったり、無駄に騒がしい気配があるはずなのに——それがない。
「……」
天井を見上げたまま、数秒。
嫌な予感が、遅れて浮かぶ。
「……帰ってないのか」
小さく呟く。
昨日のまま、真希那は戻ってきていなかった。
スマホを見る、通知はない。当然のように、連絡もない。
「……」
胸の奥が、少しだけざわつく。けれど、それを無理やり押し込める。
考えても仕方ない。そう言い聞かせるように、体を起こした。
——教室には、行きたくなかった。
理由ははっきりしている。
今は誰とも顔を合わせたくない。
赤坂に、会ってしまうかもしれない。
何を言われるか分からないし、何を言うべきかも分からない。
「……」
面倒だった。
ただ、それだけだった。
自然と足は、生徒会室へ向かっていた。
いつもより早い時間。
扉を開けると、すでに何人かは来ていたが、特に会話もなく、それぞれが自分の作業に集中している。
その空気が、妙に楽だった。
何も話さなくていい。何も考えなくていい。
自分の席に座り、資料を広げる。
黙々と手を動かす。時間だけが、静かに流れていく。
その時だった。
「楽々浦くん」
声がかかる。
葵だった。
「その資料、こっちのデータと照らし合わせてくれる?」
「……ああ」
短く返す。
自分でも分かるくらい、ぶっきらぼうだった。
「——あ」
一瞬で気づく。
「……すみません」
小さく言い直す。
「今やります」
「……うん」
葵はそれ以上何も言わなかった。
けれど——
視線だけが、少しだけこちらに残っている。
そのまま作業に戻る。けれど、さっきまでの集中はどこかに消えていた。
「……」
沈黙が、少しだけ重くなる。
数分後。
再び、声がかかる。
「……楽々浦くん」
今度は、さっきよりも少しだけ柔らかい声だった。
「大丈夫?」
「……大丈夫です」
即答だった。
間を置かない返事。
「そうは見えないけど」
「問題ないんで」
言葉が、少しだけ尖る。
自覚はあった。
止める前に、出てしまう。
「……」
葵が、少しだけ黙る。
それでも、引かなかった。
「……何かあった?」
「別に」
「別にじゃないでしょ」
少しだけ強くなる。
その言葉に、胸の奥がざわつく。
「……」
視線を落とす。
作業に戻るふりをする。
けれど——
「……赤坂さん?」
その一言で、手が止まった。
「……」
数秒。
何も言わない。
言えない。
「……関係ないですよね」
ようやく出た言葉は、冷たかった。
自分でも分かるくらいに。
空気が、変わる。
「関係あるよ」
葵が、はっきりと言う。
「今の楽々浦くん、そのままにしていい状態じゃない」
その言葉に——引っかかる。
「……は?」
思わず、顔を上げる。
「……つまり、俺は今まともじゃないってことですか」
「違うよ」
すぐに返ってくる。
「そういう意味じゃなくて——」
「じゃあ何なんですか」
被せるように言う。
「放っといてください」
言葉が、止まらない。
「今、そういうのいいんで」
「よくないでしょ」
葵の声も、少しだけ強くなる。
「そのままにしていいわけない」
「……」
イラつきが、じわじわと広がる。
抑えきれない。
「……先輩に何が分かるんですか」
口から出た瞬間、空気が止まった。
「……」
葵が、何も言わない。
ただ、こちらを見ている。その視線が、少しだけ変わっていた。
「……」
時間が、妙に長く感じる。
何か言うべきだった。分かっている。
けれど——言葉が出てこない。
「……そう」
小さく、呟く。
それだけだった。それ以上、何も言わない。
何も言わずに、視線を外す。
そのまま、作業に戻る。
「……」
さっきまでと同じはずなのに。
空気が、まるで違う。
重い、息がしづらい。
「……」
真守は、何も言えなかった。
言えないまま。
ただ、目の前の資料を見つめ続けていた。
けれど——文字は、まったく頭に入ってこなかった。




