115話 俺×姉弟喧嘩=守りたかったのに壊してしまいます。
玄関の扉が閉まる音が、やけに重く響いた。
ついさっきまでそこにいたはずの気配が、一瞬で消えてしまう。静まり返った空間の中で、自分の呼吸音だけがやけに大きく感じられた。
「……」
その場に立ったまま、しばらく動けない。
何も考えられないのに、頭の奥だけがざわついている。胸の内側に残っている感情が、うまく形にならないまま、ただ沈殿しているようだった。
その時だった。
玄関の方から、慌ただしい足音が近づいてくる。
「まーくん!?」
勢いよくリビングの扉が開かれた。
真希那だった。
「唯ちゃん、泣いて自分の部屋戻ってったけど……」
息を切らしながら、こちらを見る。
「また喧嘩したの?」
その問いに、ほんの一瞬だけ間が生まれる。
「……別に」
短く返す。
「別にって顔じゃないでしょ」
すぐに返ってくる言葉。
「今さっき仲直りしたばっかじゃん」
「……」
その通りだった。それでも、認める気にはなれなかった。
「向こうが変なこと言ってきただけだろ」
吐き捨てるように言うと、真希那の眉がわずかに寄る。
「……話、聞くよ?」
少しだけ声のトーンを落として言う。
その言葉に、一瞬だけ迷いがよぎる。けれど、それを振り払うように視線を逸らし、ぽつぽつと話し始めた。
小学校のこと、公園のこと、道場のこと、赤坂がそれを知っていたこと。そして、結城に会うなと言われたこと。
ただ——肝心な部分は濁したままだった。途中で話を遮ったことも、最後まで聞かなかったことも、自分から突き放したことも。
全部、曖昧なまま。
「……って感じ」
吐き出すように言って、黙る。
短い沈黙が落ちる。
真希那はすぐには口を開かなかった。ただ、その視線だけが、少しずつ変わっていく。
「それさ」
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「唯ちゃん、ちゃんと最後まで話してた?」
「……は?」
「途中で遮ってない?」
「……」
一瞬だけ言葉に詰まる。
けれどすぐに逸らす。
「別に」
「別にじゃないでしょ」
少しだけ強くなる声。
「ちゃんと聞いてたら、あんな泣き方しないよ」
胸の奥がざわつく。
「まー君さ」
間を置いて、続ける。
「説明される前に、自分から突き放しただけじゃん」
その一言で、空気が変わった。
「……は?」
低く、返す。
「何それ」
「そのままだよ」
真希那は視線を逸らさない。
「ちゃんと聞く前に、切ったんでしょ」
「……違ぇよ」
「違わない」
言い切る。
「怖かっただけじゃん」
その言葉が、深く刺さる。
一気に、苛立ちが込み上げてくる。
「……じゃあどうしろってんだよ」
気づけば、声が荒くなっていた。
「俺、何も分かってねぇんだよ!!」
言葉が止まらない。
「結城のことも、あいつの言ってることも、全部ぐちゃぐちゃで——!」
呼吸が乱れる。
「分かんねぇから聞いてんだろ!」
「でも聞いてないじゃん」
間髪入れずに返される。
「最後まで」
言葉に詰まる。
「分かんないからって、切っていい理由にはならないでしょ」
「うるせぇよ」
吐き捨てる。
「部外者に何が分かんだよ」
その瞬間だった。
真希那の表情が、はっきりと変わる。
「……部外者?」
静かに言う。
「……ああ、そう」
小さく息を吐く。
「そっちがそのつもりなら、こっちも言うけど」
声の温度が変わる。
「真守」
名前で呼ばれる。
それだけで、距離が一気に遠くなる。
「今のあんた、普通に最低だよ」
「……は?」
「自分で突き放しておいて、相手のせいにしてるだけじゃん」
「関係ねぇだろ」
「あるでしょ」
「ねぇよ」
「あるって言ってんの!」
言葉がぶつかる。
引く気は、どちらにもなかった。
「……もういいって」
吐き捨てる。
「今そんな余裕ねぇんだよ」
「余裕の問題じゃないでしょ」
「うるせぇな」
「ちゃんと向き合えって言ってんの!」
「向き合ってるっつってんだろ!!」
完全に、衝突していた。
その勢いのまま、真希那が一歩踏み出す。
感情のままに、手が上がる。
その瞬間——
「……また」
喉が乾く。それでも止まらない。
「また昔みたいに手上げるの?」
時間が止まる。
真希那の動きが、ぴたりと固まる。
上げた手が宙で止まり、そのまま動かない。
何も言わない。いや、言えない。
目だけが、大きく揺れていた。
それでも——
言葉は止まらなかった。
「……そういうとこだよ」
自分でも止められないまま、続く。
「自分が正しいと思ったら、それ押し付けてくるとこ」
空気がさらに冷える。
「お前も、十分勝手だろ」
一歩も引かない。
「人のこと分かった気になって、勝手に決めつけて」
そして——言い切る。
「そういうとこ、昔から変わってねぇよな」
完全に、一線を越えた。
真希那の唇が、わずかに震える。
何かを言おうとして——声にならない。
ゆっくりと、手が下がる。
「……そう」
かすれた声だった。
「……そこまで思ってたんだ」
視線が外れる。
何かが、静かに折れた音がした。
「……もういい……ちょっと外、出る」
それだけ言って、背を向ける。
止めることはできた。言葉だって、選べたはずだった。
けれど——何も言わなかった。
真希那はそのまま自分の部屋へと入っていく。
ドアが閉まる音のあと、すぐに中から物音が聞こえ始める。
引き出しを開ける音、何かを詰める音、クローゼットを開ける音。
淡々と、感情を切り離したような音。
「……おい」
思わず声が漏れる。
けれど返事はない。
やがてドアが開く。
真希那が出てきて、手には大きめのバッグ。明らかに“ちょっと出る”量じゃない。
「……どこ行くんだよ」
それでも、聞いていた。
真希那は一瞬だけ立ち止まる。
けれど、振り返らない。
「……ちょっと、出るだけ」
それだけ。
「ちょっとって荷物じゃねぇだろ」
沈黙。
そして——
「……少し、頭冷やす」
それだけ言って、また歩き出す。
玄関へ向かう。
止めるべきだった。分かっていた。
けれど——動かなかった。
玄関のドアが開く。
外の空気が一瞬だけ流れ込む。
そして——閉まる音。
完全な静寂。
さっきまであった気配が、全部消えた。
「……はぁ」
深く、息を吐く。
何も残っていない空間。さっきよりも、ずっと冷たい。
それでも——
追いかけようとは、思わなかった。ただ、その場に立ち尽くしたまま。
何もない空間を、見つめていた。




