111話 俺×病院=救われたのに前に進めません。
病院に着いた時、胸の奥に残っていた重さが少しだけ強くなった気がした。
見慣れた建物。数日前まで自分がいた場所。もう戻ることはないはずなのに、足が自然とここへ向いてしまう。
自動ドアが開く。
冷たい空気と、あの独特の匂い。
「……」
一歩、足を踏み入れる。
受付に向かうと、見覚えのある看護師が顔を上げた。
「あれ、楽々浦さん?」
少し驚いたような表情。
「退院したばかりですよね?どうかされました?」
そのまま心配そうに身を乗り出してくる。
「どこかまた痛みが出ましたか?」
「いえ、そういうわけじゃなくて……」
軽く首を振る。
「今日は別の用件で来ました」
そう言って、一呼吸置く。
「結城さんの件なんですが……」
名前を出した瞬間、看護師の表情が少しだけ変わった。
「ああ……結城さんですね」
カルテを確認するように視線を落とす。
「数日前に、意識は戻ってますよ」
「……っ」
その一言で、胸の奥に張り詰めていたものが一気に緩んだ。
「……そうですか」
思わず、小さく息が漏れる。
よかった。それだけで、十分だった。
「ただ……」
看護師が少し言葉を選ぶように続ける。
「面会は、まだ難しい状態でして」
「難しい、ですか?」
「はい。ご本人が、誰とも会いたくないと仰っていて……」
「……」
言葉が止まる。
「医師の判断で、今は無理に会わせない方がいいということになっています」
丁寧な説明だった。
拒絶されているわけじゃない。
でも、距離は確かにあった。
「……わかりました」
無理に食い下がる理由もなかった。
「ありがとうございます」
軽く頭を下げて、その場を離れる。
来る前よりも、気持ちは軽くなっていた。
それでも——
「……」
会えないという事実だけが、少しだけ引っかかる。
外に出ると、夕方の空気が肌に触れた。
病院の中より、少しだけ温かい。
「……生きてるなら、それでいいか」
小さく呟く。
それだけで、十分なはずだった。
足は自然と、自宅へ向かっていた。
考えることは、まだ山ほどある。
けれど今は——
そこまで深く考える余裕はなかった。
家の前に着く。
鍵を取り出して、玄関に手をかけようとしたその時だった。
隣の扉が、静かに開く音がした。
「……」
反射的に視線を向ける。
そこにいたのは——赤坂だった。
一瞬、時間が止まる。
お互いに、何も言わない。
ほんの数秒の沈黙が、やけに長く感じた。
「……」
何か、言うべきだと思う。
頭ではわかっている。けれど、言葉が出てこない。あの日のことが、邪魔をする。
赤坂の方も、同じだった。
視線が合って、すぐに逸らされる。
そして——
「……退院、おめでとう」
小さな声だった。
それだけ。それ以上は何も言わない。
そのまま、自分の部屋のドアを開ける。
「……」
引き止めることも、できなかった。
ドアが閉まる音だけが、やけに大きく響く。
「……」
残されたまま、立ち尽くす。
何かが、確実に変わってしまった。
それだけは、はっきりとわかる。
「……」
小さく息を吐く。
今は、まだいい。無理に踏み込むべきじゃない。そう自分に言い聞かせる。
気持ちを切り替えるように、玄関のドアを開ける。
その瞬間だった。
「まーくんおかえりーー!!」
「うわっ!?」
勢いよく飛び込んでくる影。
「ちょっ、真希ねぇまたそれか!!」
真希那だった。
完全に油断していた。そのまま抱きつかれる。
「だって帰ってきたし!」
相変わらずだった。
「……はぁ」
思わずため息が漏れる。
けれど、その温度は重くない。
むしろ少しだけ、救われる。
「ほらほら!今日もちゃんとご飯あるから!」
「毎日気合い入れすぎだろ」
「いいの!」
「よくねぇよ」
いつものやり取り。
変わらない日常。
それが、毎回少しだけありがたかった。
「……」
玄関の向こう。さっき閉まった隣のドアが、頭をよぎる。
「……ま、いいか」
小さく呟いて、そのまま中へ入る。
今はまだ——
それでいい気がした。




