110話 俺×登校=何か欠けています。
朝の空気は、どこか現実味がなかった。
退院して初めての登校。見慣れたはずの通学路が、少しだけ遠く感じる。体の痛みはほとんど引いているのに、胸の奥に残った重さだけが消えない。
「……」
校門をくぐると、いつもと同じ景色が広がっていた。何も変わっていないはずなのに、自分だけが別の場所から戻ってきたような、そんな違和感がまとわりつく。
教室の扉を開けた瞬間だった。
「おい!!楽々浦!!」
真っ先に飛び込んできたのは神宮丸の声だった。
「大丈夫なのかよ!?ニュースみたいになってたぞ!?」
「いや、そこまでじゃねぇよ……」
苦笑しながら返すと、すぐに周りのクラスメイトたちも集まってくる。
「ほんとに大丈夫?」
「怪我やばかったって聞いたけど……」
「無理すんなよ?」
一気に距離が詰まる。騒がしくて、うるさくて——でも、それが少しだけ心地よかった。
「あー……まあ、なんとか」
曖昧に返すと、神宮丸がニヤッと笑う。
「なんとかって顔じゃねぇけどな」
「うるせぇよ」
軽く返すと、どっと笑いが起きる。
そのやり取りに、ほんの少しだけ、本当に少しだけ、戻ってきた気がした。
けれど。
「……」
教室の中を見渡して、無意識に一箇所へ視線が向く。
そこにいるはずの人物は——いない。
何もなかったように時間は流れていく。
授業も、休み時間も、驚くほど普通だった。普通すぎて、逆に現実感がない。
あれだけのことがあったのに、世界は止まっていなかった。
そして、気づけば放課後になっていた。
自然と足は、生徒会室へ向いていた。
扉の前で一瞬だけ立ち止まる。
あの場所に戻るのは、少しだけ勇気が必要だった。それでも、手をかけて扉を開ける。
「失礼します——」
言い終わる前に、視線が集まった。
一瞬だけ、空気が止まる。
「……」
何も言わない。ただ、全員がこちらを見ている。
その沈黙を破ったのは——会長だった。
「おかえり、楽々浦君」
いつもの柔らかい声だった。
会長はゆっくりとこちらへ歩いてくる。その足取りは穏やかで、優しさすら感じるほどだった。
「怪我の具合はどうだい?」
「……問題ないです」
そう答えた瞬間だった。
ふわりと、視界が近づく。
「無事でよかった」
気づけば、抱きしめられていた。
「……っ」
驚きで一瞬体が固まる。
強くもなく、弱くもない。ただ包み込むような抱擁。だが、その温度に安心はなかった。
周りを見る。
誰も止めない。
誰も何も言わない。
ただ、見ているだけだった。
「……ありがとうございます」
少しだけ間を置いて、そう返すと、会長はゆっくりと離れた。
「無理はしないようにね」
そのまま、何事もなかったかのように自席へ戻っていく。
「……」
胸の奥に、言葉にできない違和感が残ったままだった。
そのまま、副会長のスペースへ向かう。
葵の姿が見えた。
「……楽々浦くん、おかえり」
その声は、落ち着いていた。
けれど、どこか少しだけ力が抜けたようにも聞こえる。
「……ただいま戻りました」
「うん」
短い返事。
それ以上は、特に何も言わない。
病院で会っているからか、余計な言葉はいらなかった。その静かなやり取りが、逆に自然だった。
軽く視線を交わしてから、真守はその場を離れる。
生徒会室の奥へ。
「神楽坂先輩」
声をかけると、小さく肩が跳ねた。
「ひゃ、ひゃいっ……!」
振り向いた顔は、いつも通りおどおどしている。
「おかえり……」
「ただいまです」
少しだけ間を置いて、本題を切り出す。
「祇園先輩は……どうなったんですか?」
その瞬間、神楽坂先輩の視線が泳いだ。
「え、えっと……それは……その……」
明らかに、言葉を濁している。
「……」
嫌な予感がする。
「わ、私は、その……詳しくは……」
その時だった。
「それなら僕が説明しようか」
背後から、静かな声。
振り向くと、すぐ後ろに会長が立っていた。
「……っ」
気配すら感じなかった。
「彼女は退学処分になったよ」
淡々とした声だった。
「それと——施設に送られた」
一切の感情を感じさせない言い方だった。
「……」
言葉が出てこない。実感が、まるで湧かなかった。
「まあ、当然の結果だね」
軽く肩をすくめる会長。
それ以上、何も言えなかった。
その後の時間は、ほとんど記憶に残っていない。
作業をしていたはずなのに、何も頭に入ってこなかった。
気づけば、生徒会は終わっていた。
「……」
静かになった部屋を出て、廊下を歩く。
足は自然と、校門の方ではなく——駅の方へ向いていた。
考えるまでもなかった。
向かう先は、一つしかない。
「……結城」
名前を小さく呟く。
夕焼けが、やけに眩しかった。
そのまま、病院へ向かう足を止めることはなかった。




