109話 俺×いつもの日=戻った気がします。
退院して、家の前に立った時だった。
ふと、息を吸う。
外の空気が、やけに新鮮に感じる。病院の匂いじゃない。消毒液でも、無機質な空気でもない、いつもの街の匂い。
「……」
ほんの少しだけ、肩の力が抜けた気がした。
全部が終わったわけじゃない。
自分の中では何も解決していない。
それでも——
「……帰るか」
小さく呟いて、ドアに手をかける。
開けた瞬間だった。
「まーくんおかえりーーーー!!!!!」
「うわっ!?」
視界いっぱいに真希那が飛び込んできた。
勢いが強すぎる。避けきれない。
「ちょ、待て待て待て!!」
受け止めた瞬間、体に走る痛み。
「ぐっ……!」
普通に痛い。
「大丈夫!?今の大丈夫!?」
「お前が聞くな!!」
「だって心配だったんだもん!」
全然反省してない。
むしろ満面の笑み。
「……まだ治ってねぇんだぞ」
「大丈夫大丈夫!死にかけから復活したし!」
「雑すぎるだろその理論!」
普通に危ない。
というか、今の一撃で普通に怪我が悪化しそうになった。
「ほらほら!とりあえず中入って!」
「おい押すな!」
そのまま背中を押されて家の中に入れられる。
靴を脱ぐ暇もあまりない。
「はい、ここ座って!」
「命令形かよ」
リビングに連れて行かれ、そのままソファに座らされる。
「動かないでね!」
「いやさっきから動かしてるのは誰だよ」
真守のツッコミなど気にせず、真希那はキッチンへ向かう。
「水飲む?」
「飲むけど」
「はい!」
渡されたコップ。
でかい。
「……多くない?」
「多めにしといた!」
「加減を覚えろ」
とりあえず飲む。
普通に喉が渇いていた。
「あとねあとね、ご飯も用意してあるから!」
「早いな」
「退院するって聞いた瞬間から準備してた!」
妙に気合い入ってる。
というかテンションが高すぎる。
「……落ち着け」
「無理!」
即答だった。
「だってまーくん帰ってきたし!」
理由がシンプルすぎる。
「……」
思わずため息をつく。
けど、その空気は重くない。
むしろ、いつも通りすぎて——少しだけ安心する。
その時だった。
「……あ、もう来てたんだ」
聞き慣れた声。
振り向くと、白ヶ崎が立っていた。
「白ヶ崎さん?」
「……様子見に来ただけだから」
さらっと言う。
けど、すでに靴は脱いであるし、完全に上がる気満々だった。
「それ長居するやつだろ」
「しないし」
「絶対するだろ」
「しないって言ってるでしょ」
いつものやり取り。
「……」
なんか、普通だ。
変わらない。
「それより」
白ヶ崎が腕を組む。
「無茶しすぎ」
「……すみません」
素直に返すと、少しだけ表情が緩んだ。
「……まあ、無事ならいいけど」
その言い方も、いつも通りだった。
「ねーねー咲音ちゃん!」
真希那が割り込む。
「まーくん今めっちゃ弱ってるからさ、優しくしてあげてね!」
「弱ってるって言うな」
「だって事実でしょ?」
「否定はできないけど言い方!」
「じゃあボロボロ?」
「もっと悪化した!」
会話のレベルが低い。
「……はぁ」
白ヶ崎が小さくため息をつく。
「うるさい」
「咲音ちゃんも混ざる?」
「混ざらない」
即答。
「えー」
「えーじゃない」
でも、そのやり取りもどこか柔らかい。
真希那はそのままキッチンへ向かい、「ちょっと待っててね!」と声をかけてくる。
「……」
ふと、静かになる。
白ヶ崎と、二人。
「……」
ほんの一瞬だけ。
頭に浮かぶ。
病室の光景。
何も言わずに出ていった背中。
「……」
すぐに、目を逸らす。
——今は、いい。
考える必要はない。
「……どうしたの」
白ヶ崎が首を傾げる。
「いや、なんでもない」
「ふーん」
少しだけ怪しそうに見られる。
けど、それ以上は何も言わない。
そのまま話題が変わる。
学校の話。授業のこと。どうでもいい話。
笑いもある。
「はいできたー!」
真希那が戻ってくる。
テーブルに料理が並ぶ。
「……」
普通に多い。
「多くない?」
「退院祝いだから!」
「だからって量がおかしい」
「食べれる食べれる!」
「無理だろ」
「大丈夫!」
「根拠がない!」
でも、そのまま食べ始める。
味は——普通にうまい。
「……普通にうまいな」
「でしょ!」
ドヤ顔。
「そこは褒める」
「もっと褒めていいよ?」
「調子乗るからやめとく」
「えー」
そんなやり取りをしながら、時間が過ぎていく。
笑って。
話して。
久しぶりに、ちゃんとした“日常”だった。
「……」
夜。
一人になる。部屋の中。
静かだ。
ベッドに座り、手を見る。
まだ少し、震えが残っている気がした。
「……」
ふと、思い出す。
言葉。
空気。
全部。
「……」
息を吐く。
「……ま、今はいいか」
小さく呟いて、そのままベッドに倒れ込む。
目を閉じる。
考えない。
今は——それでいい。




