108話 俺×白い天井=見覚えありません。
白い、という感覚が最初にあった。
ぼやけた視界の奥に広がる天井と、無機質な光。その光がやけに眩しくて、思わず目を細める。
遅れて、消毒液の匂いが鼻を刺した。
「……」
まぶたが重い。開いているはずなのに、まだ夢の中にいるみたいな感覚が抜けない。けれど、ゆっくりと意識が浮かび上がるにつれて、体のあちこちから鈍い痛みが主張してくる。
腕も、足も、肋骨の奥も、どこを動かしても違和感しかない。
「……ここ……」
かすれた声が、自分の口から漏れた。
病院だ、と理解するまでに、少し時間がかかった。
そして、その理解と同時に——記憶が戻ってくる。
体育館倉庫。血の匂い。結城の姿。倒れていく男たち。そして、最後に見た——祇園。
「……っ」
息が詰まる。
頭の奥が、ずきりと痛んだ。
あの光景が、何度も繰り返される。目を閉じても、閉じなくても、消えてくれない。特に最後のあの顔だけが、やけに鮮明に焼き付いていた。
泣いていた。
確かに、泣いていた。
「……なんで……」
呟きは、誰にも届かない。
祇園が全ての黒幕だった。その事実は、もう疑いようがないほど現実として突きつけられている。
それでも、あの涙だけがどうしても繋がらなかった。
納得できない。
胸の奥に引っかかったまま、取れない何かがある。
「……」
ゆっくりと上体を起こすと、すぐに痛みが走り、思わず歯を食いしばる。それでも止まるわけにはいかなかった。
頭の中に浮かんでいるのは、結城の姿だけだった。
「……結城」
声に出した瞬間、胸がざわつく。
あの時、血だらけで倒れていた。意識があったのか、それすらはっきりしない。無事なのか、それとも——
「……っ」
考えを無理やり振り払うと、ベッドから足を下ろす。
床に触れた瞬間、思った以上に力が入らないことに気づくが、それでも無理やり立ち上がった。壁に手をつきながら、なんとか体を支える。
「……行かないと」
誰に言うでもなく呟いて、一歩踏み出す。
足を引き摺るようにして廊下へ出ると、夜の病院は驚くほど静かだった。
自分の足音だけがやけに大きく響いている。
その時だった。
「ちょっと!!」
鋭い声が飛ぶ。
「何してるの!?」
振り向くと、看護師が早足でこちらに向かってきていた。明らかに怒っている。
「目が覚めたのはいいけど、いきなり歩き回るとかダメでしょ!」
「……すみません」
反射的に謝ると、間髪入れずに返された。
「すみませんじゃない!」
ぴしっと言い切られる。
「どれだけの怪我してると思ってるの!?まだ安静にしてないといけないの!」
「……でも」
「でもじゃない!」
完全に食い気味だった。
その圧に一瞬言葉を失うが、それでも引くわけにはいかない。
「結城って人、いませんか」
その一言で、看護師の表情がわずかに曇る。
ほんの一瞬の沈黙が、妙に長く感じられた。
「……結城さん?」
「はい」
「……」
少しの間を置いて、看護師はゆっくりと口を開いた。
「今、意識が戻っていない状態です」
「……っ」
心臓が、強く打つ。
「状態も……あまり良くありません」
その言葉が、やけに遠く聞こえた。
足の力が抜ける。
その場に、崩れ落ちた。
「ちょ、ちょっと!?」
看護師が慌てて支える。
「だから言ったでしょ!こんな体で出歩くから!」
「……」
何も言えない。
頭の中が真っ白になる。
遅かった。
間に合わなかった。
そんな言葉だけが、ぐるぐると回る。
「とにかく戻るわよ!」
半ば強引に支えられ、そのまま病室へと連れ戻される。ベッドに座らされ、「安静にしてて!」と強めに言われたあと、看護師は部屋を出ていった。
静寂が戻る。
夜の病院は、時間が止まっているみたいだった。
「……」
天井を見上げる。
何も考えられない。
ただ、あの光景だけが消えない。
祇園の涙も、結城の血も、自分の拳も、全部が混ざり合って離れない。
気づけば、そのまま意識が落ちていた。
そして、次に目を開けたときには、光が変わっていた。
朝だった。
時間が自然に進んでいる。
「……」
体は少しだけ軽くなっていたが、完全に回復しているわけではない。それでも、昨日よりは動ける。
その時だった。
「……あ」
小さな声が聞こえる。
視線を向けると、白ヶ崎が立っていた。
「真守くん……!」
その声には、はっきりと安堵が滲んでいた。
続けて、真希那がひょこっと顔を出す。
「おはよーまーくん。やっと起きたね」
軽い調子で言うが、その目はちゃんと安心している。
その後ろには葵がいて、少し距離を取りながらもこちらを見ていた。
「……楽々浦くん」
小さく名前を呼ぶ。
「よかった……」
その声は、優しかった。
そして、その少し後ろ。
壁際に、赤坂が立っていた。
何も言わない。ただ、そこにいるだけだった。
「……」
空気が、わずかに重くなる。
白ヶ崎がそれを振り払うように声を出す。
「ほんと心配したんだからね!」
「ほんとそれ」
真希那も乗る。
「まーくん普通に死にかけてたし」
「……すみません」
素直に返すと、白ヶ崎が少しだけ表情を緩めた。
そんなやり取りが続く中で、真守はふと赤坂の方を見た。
そして、自然と口を開いていた。
「……結城は、本当に襲われていました」
全員の動きが止まる。
「俺の選択は、間違っていなかったです」
その一言で、空気が完全に凍りついた。
真希那が慌てて何か言おうとするが、言葉にならない。
赤坂がゆっくりと顔を上げる。
その目には、涙が浮かんでいた。
けれど、何も言わない。
そのまま静かに踵を返し、部屋を出ていく。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
誰も、何も言えない。
重い沈黙だけが残る。
やがて、白ヶ崎が小さく「また来るね」と言い、真希那と葵もそれに続くように部屋を出ていった。
一人になる。
しばらくそのまま座っていたが、やがて真守はゆっくりと立ち上がった。
今度は、さっきよりしっかり歩ける。
廊下に出て、看護師を見つける。
「すみません」
声をかける。
「結城って人に会えますか」
看護師は少しだけ困ったような顔をして、「しばらくは意識が戻っても面会できません」と静かに答えた。
それ以上は聞けなかった。
「……わかりました」
小さく言って、そのまま引き返す。
病室に戻り、ベッドに座る。
何もできない自分が、ただ重かった。
それから二週間。
時間はゆっくりと流れた。
白ヶ崎だけは毎日来て、学校の話やどうでもいい話をしてくれた。
その何気ない時間が、少しずつ心を軽くしていく。
ある日、ふと真守は口を開いた。
「……ありがとう」
「……え?」
白ヶ崎が止まる。
「な、なに急に」
驚いた顔。
「いや……なんとなく」
そう言うと、白ヶ崎は少し照れたように目を逸らした。
「なんとなくで言わないでよ……でも、まあ……いいけど」
小さく笑う。
その空気が、少しだけ柔らかかった。
そして迎えた退院の日。
久しぶりの外の空気を吸い込むと、胸の奥が少しだけ軽くなる。
まだ終わっていない。
自分の中では何も解決していない。
それでも——
「……帰るか」
そう呟いて、真守はゆっくりと歩き出した。




