107話 俺×覚醒=取り戻します。
意識が、落ちていく。
音が遠ざかる。痛みも、重さも、すべてがゆっくりと溶けていくみたいに、境界が曖昧になっていく。
暗い。何も見えない。
それでも、どこかで——
「……まも……」
声がした。
遠くから。
水の中で聞いているみたいに、ぼやけているのに、はっきりと“自分を呼んでいる”のがわかる声。
「……まもる……」
少しだけ、近づく。
その響きに、何かが引っかかる。
懐かしいような、でも思い出せないような、胸の奥をざわつかせる感覚。
「……まも君」
次の瞬間、世界が切り替わった。
――――――
目を開ける。
畳の匂いがした。
鼻の奥に残る、乾いた汗と木の香り。頬に触れる感触は、固くて冷たい。視界に入るのは、天井の木目。
見覚えがある。
いや、見覚えなんて言葉じゃ足りない。
これは——
「……道場……?」
呟いた瞬間、頭に衝撃が走った。
「寝てんじゃねぇ!!」
ゴン、と鈍い音。
「——っ!?」
思わず体が跳ねる。
見上げると、そこに立っていたのは厳しい顔をした師範だった。
腕を組んで、睨みつけてくる。
「何回言わせるんだ。甘ったれるな」
低く、重い声。
「立て」
その一言に、体が勝手に反応する。
考えるより先に、膝に力が入る。
立ち上がる。
息が荒い。体が重い。それでも、止まらない。
「……押忍!!」
声が出た。
自分でも驚くくらい、自然に。
構える。拳を握る。
その瞬間、体の奥から何かが“戻ってくる”。
動き方。呼吸の仕方。足の運び。
全部、考えなくてもできる。
「もう一回だ」
師範の声。
「押忍!」
踏み込む。拳を出す。打つ。避ける。受ける。
全部が繋がる。
流れるように、体が動く。
——けれど。
一瞬、足がもつれ視界が揺れる。
「っ……!」
バランスを崩し、そのまま、床に叩きつけられる。
「——っ、く……」
呼吸が乱れる。
胸が痛い。体が言うことを聞かない。
「……情けねぇな」
師範の声が落ちる。
「それで終わりか?」
「……まだ……です」
無理やり言葉を絞り出す。
その時。
「まも君、大丈夫?」
隣から、声がした。
柔らかい声。
すぐ近く。
視線を向ける。
そこにいたのは——誰か。
顔はぼやけている。輪郭だけが見える。
でも、その声だけははっきりとわかる。
「……ゆーちゃん」
自然に名前が出た。自分でも、驚くくらい自然に。
「気にするな!」
言いながら、無理やり体を起こす。
足が震えながら、それでも立つ。
「男はな!」
声が、少しだけ大きくなる。
「女の子のために頑張らなきゃならねぇんだよ!!」
拳を握る。
痛い。でも、それでも。
「どんな困難でもな!!」
言い切った、その瞬間。
ゴンッ、とまた頭に衝撃。
「——いってぇ!?」
「馬鹿かお前は!」
師範の声が飛ぶ。
「今は男も女も関係ない!!」
「……っ」
「目の前のことに集中しろ!!」
「……押忍……」
頭を押さえながら、返事をする。
そのやり取りを見ていた“誰か”が、くすっと笑った。
視線が合う。
ぼやけているのに、笑っているのがわかる。
その笑いにつられて——
「……はは」
自分も、笑っていた。
——————
————
——
その笑いが、遠ざかる。
代わりに、現実が流れ込んでくる。
血の匂い。
重い空気。
荒い呼吸。
「……っ」
視界が戻る。
体育館倉庫。
床。
結城。
祇園。
「……」
ゆっくりと、立ち上がる。
痛みはある。だが、それはもう“邪魔”ではない。
呼吸が整ってい、視界が澄んでいる。
すべてが見える。
距離、動き、タイミング。
「……なんだ、こいつ」
誰かが呟く。
一歩、後ずさる。
「……へぇ」
祇園が、小さく声を漏らす。
「それ、何?」
わずかな驚き。
「楽々浦くん、そんな顔もできるんだ」
「……」
真守は何も言わない。
ただ、一歩、前に出る。それだけで、空気が変わる。
男たちが、本能的に距離を取る。
「来いよ」
強がりの声。
次の瞬間——
踏み込んでいた。
一瞬で距離を詰めると、そのまま腰の回転に乗せて拳が走る。
無駄のない軌道で放たれた一撃は、顎を正確に捉え、鈍い音と共に男の体を吹き飛ばした。
「がっ——!?」
崩れ落ちるのを視界の端で捉えたまま、真守の動きは止まらない。
拳を引き戻すと同時に足を滑らせ、次の相手の懐へ潜り込む。
体重を乗せた膝が腹部へ突き刺さり、息を潰した男の体が前のめりに崩れる。
そのまま肩を押し込み、軸を奪い、床へ叩きつける。
「ぐっ……!」
視界が開ける。
残りの位置が、すべて見えている。
背後から迫る気配。
振り向かない。
わずかに体を引き、次の瞬間、回転の勢いを乗せた裏拳が側頭部を打ち抜く。
男の体が横に流れ、そのまま崩れ落ちる。
「なんだよこいつ……!」
男の声が震える。
真守は止まらずに、踏み込む。
振り下ろされる腕より速く懐に入り込み、鳩尾へ一直線に突きを叩き込む。
空気が抜ける音と共に、体が折れ、そのまま膝から崩れる。
さらに一歩。距離を詰める。
後退しようとした最後の一人の足元を払う。
体勢が崩れた瞬間——
「——っ!!」
最後の一撃が叩き込まれた。
静寂。
誰も、立っていない。
残るのは——祇園だけ。
「……」
ゆっくりと、歩く。
足音が、やけに響く。
祇園の呼吸が乱れ、一歩、下がる。
「……っ」
「ま、待って……」
声が震える。
そして、涙が浮かぶ。
「やめて……」
「……」
真守は止まらない。
何も言わない。ただ、近づく。
その沈黙が、何よりも重い。
「お願い……」
祇園の声が、崩れる。
それでも——
拳を、ゆっくりと握る。
そのまま振り上げた、その瞬間。
「待って!!楽々浦くん!!」
アリスの声。
「——っ」
時間が、止まる。
「……あ……」
視界に現実が戻る。
倒れた男たち。震える祇園。血まみれの結城。
そして——自分の拳。
「……何……」
理解した瞬間、体から力が抜ける。
膝が揺れ、視界がぐらつく。
その隙を——祇園は見逃さなかった。
一気に距離を取り、ポケットに手を入れる。
取り出したのは、ナイフ。
「……っ!」
そのまま、結城の首元へ。
「動かないで!!」
鋭い声。
「……」
真守は、動けない。
体に力が入らない。それでも——目だけは、祇園を捉える。
「……もう、やめましょう」
静かに、言う。声は震えていない。
「……」
「こんなこと、本当はしたくないんでしょう」
一歩、踏み出す。
足は重い。それでも、止まらない。
「……」
祇園の目に、涙が浮かぶ。
けれど、何かに抵抗するように強がる。
「は?何言ってんの」
「……」
「うざいんだけど」
声は強い。でも、手は震えている。
ナイフの刃先が、わずかに揺れる。
「……やめましょう」
もう一度。
優しく。
「……」
「もう、無理しなくていい」
「……っ」
祇園の呼吸が乱れる。
涙が、頬を伝う。
それでも——
「黙れよ……!」
叫ぶ。
「何も知らないくせに……!」
「……」
「勝手なこと言うなよ……!」
「……それでも」
真守は、止まらない。
「何度でも言います」
ゆっくりと距離を詰める。
「……もう、大丈夫です」
その言葉に——
祇園の力が、わずかに緩んだ。
その瞬間。
真守は、一気に踏み込む。
手首を掴み、ナイフを弾く。
床に落ちる音。
そして、そのまま——祇園を、抱きしめた。
「……っ」
体が震える。祇園の体も、同じように震えている。
「……もう、いいです」
小さく、言う。
「無理しないでください」
「……っ」
祇園の声が、崩れる。
「……ほんとは……」
嗚咽混じりに、言葉が零れる。
「こんなこと……したくなかった……」
「……」
「……こうなる前に……助けてほしかった……」
「……ごめん」
真守は、ただそう言った。
強く、抱きしめる。
その時——
「そこまでだ」
低い声。
三宝と山影。
一瞬で距離を詰め、祇園が拘束される。
「待ってください……!」
真守は手を伸ばす。だが、力が入らない。
「離してください……!」
その瞬間。
山影の腕が振られる。
「邪魔だ」
「——っ」
衝撃。視界が弾ける。
そのまま——完全に意識が、途切れた。




