106話 俺×崩壊=もう戻れません。
夜の空気——
肌にまとわりつくような、湿った静けさ。遠くで聞こえる虫の音。街灯に照らされたベンチ。誰もいないはずの場所なのに、そこには確かに“誰か”がいた気がする。
思い出す。
いや、思い出してしまう。
夜の公園。
言葉を交わした時間。
少しだけ近づいた距離。
安心していたわけじゃない。でも、少なくとも——疑ってはいなかった。
「……」
足が止まる。
違う。
今は、そんなことを考えている場合じゃない。
頭ではわかっているのに、勝手に浮かんでくる。あの時の声。仕草。少し恥ずかしそうに笑った顔。寄り添うように立っていた距離。
全部が、現実感を持って押し寄せてくる。
それなのに。
目の前の現実は、それを全部否定してくる。
——体育館倉庫の扉を開けた瞬間、その“続き”は容赦なく繋がってしまった。
「——結城っ!!」
叫んだ声の残響が、まだ耳の奥で鳴っている。
床に座り込んだ結城の姿。血に濡れた顔。裂けた制服。
そして——
その奥に立っていた“影”。
視界が、ゆっくりと焦点を結んでいく。
「……っ、なんで……」
喉から漏れた声は、自分のものとは思えなかった。
そこにいたのは——
祇園紅子だった。
「……あは」
小さく、笑った。
それだけで、背筋が凍る。
「そんな顔するんだ」
まるで、初めて見るものでも見るかのように、興味深そうに真守を見ている。
「あんたってさ、もっと余裕あるタイプだと思ってたんだけど」
軽い。
あまりにも軽い。
さっきまで頭の中にあった“記憶”と、目の前の存在が、どうしても一致しない。
「……っ」
言葉が出ない。
何も、繋がらない。
「今日はさ」
祇園が、ふと周囲を見渡すようにしてから、また真守に視線を戻す。
「……あの小さいの、いないんだね」
その言い方。
軽蔑でも、怒りでもない。ただ、どうでもいいことを確認するような口調。
「……」
赤坂のことだ。
すぐにわかった。でも、それを考える余裕すらなかった。
頭の中が、ぐちゃぐちゃだった。
さっきのことも、ここに来るまでのことも、全部が一度に押し寄せてくる。
赤坂の涙。
葵の怒声。
白ヶ崎の叫び。
結城の血。
そして——祇園。
「……なんで」
やっと、それだけが出た。
「なんで、ここに……」
「ん?」
祇園が首を傾げる。
「ここにいる理由?」
くす、と笑う。
「それ、今さら聞く?」
周囲に、男たちの気配があった。
複数。
視界の端で、動いている。一人じゃない。囲まれている。
祇園は顔を歪ませながら言葉を続ける。
「私がぜーんぶ指示してやってたの!見事でしょ?全く気づいてないの、本当にバカだよね!」
「……っ」
足が震える。
止まらない。
心臓がうるさい。
呼吸が浅い。
何を見てる。
何が起きてる。
これ、現実か?
夢じゃないのか。
いや、夢じゃない。
血の匂いがする。
鉄の匂い。
結城の呼吸音。
男たちの靴の音。
全部、リアルだ。
「……楽々浦くん」
祇園が、ゆっくりと一歩近づく。
その距離が、やけに遠く感じる。
「そんなに混乱してるの、ちょっと可愛いかも」
「……っ」
言葉が刺さる。
意味が理解できない。したくない。
「……なんで」
もう一度、同じ言葉を吐く。
「なんで、こんなこと……」
「こんなこと?」
祇園が笑う。
「あんた、何か勘違いしてない?」
その言い方は、冷たかった。
さっきまでの軽さとは違う、明確な拒絶。
「そもそもさ」
ゆっくりと、言葉を重ねる。
「あんたと仲良くなった覚え、ないんだけど」
「……」
その瞬間、何かが、音を立てて崩れた。
頭の中で、繋がっていたはずのものが、全部、切れる。
夜の公園。
あの時間。
全部、全部。
「……っ」
歯を食いしばる。
唇に力が入る。
痛みが走る。
それでも止められない。
「……ふざけんな」
小さく、漏れる。
血の味がした。唇が切れていた。
「……あは」
祇園は楽しそうに笑う。
「いい顔するじゃん」
「……っ」
何も整理できない。
怒りなのか、悲しみなのか、恐怖なのか、自分でもわからない。
ただ、身体が勝手に動いた。
結城の方へ。
「——っ!」
走る。
その瞬間、横から衝撃が来た。
「がっ……!」
視界が揺れる。
腹に、重い一撃。
息が一気に吐き出される。
次の瞬間、顔に拳が飛んできた。
鈍い音。視界が白くなる。
「……っ」
倒れない。
倒れられない。
足に力を入れる。
けれど、次の衝撃が来る。
横から。
背中から。
何人いるのか、わからない。
「——っ!!」
また一撃。
肋骨が軋む。
呼吸ができない。
空気が入ってこない。
「……っ、は……」
膝が折れそうになる。
それでも、前に出る。
結城まで、あと少し。
手を伸ばす。
届かない。
また殴られる。
視界が歪む。
音が遠くなる。
何してる。
何してるんだ俺は。
助けるんじゃなかったのか。
立て。
立てよ。
「……っ」
足が言うことを聞かない。
それでも、無理やり前に出る。
殴られる。
蹴られる。
何度も。
何度も。
何度も。
「……あはは」
遠くで、祇園の笑い声がする。
「頑張るじゃん」
全部が軽い。
こっちは、息もできないのに。
「……っ」
視界が暗くなる。
音が、遠くなる。
身体が、重い。
倒れる。
いや、倒れるな。
まだだ。
まだ——
その時。
どこからか、声がした。
「——男はさ、女の子のために頑張るもんでしょ」
「……」
誰の声だ。
知らない。
でも、知ってる気がする。
遠い。
昔。
どこかで。
「……っ」
身体が、もう動かない。
それでも。
もう一歩。
足を出す。
その瞬間、強烈な一撃が頭を揺らした。
視界が完全に歪む。
膝が、落ちる。
床が近い。
冷たい。
「……っ、は……」
呼吸が、できない。
意識が、遠い。
それでも。
まだ。
まだ——
「……まだ、終わって……」
言葉にならない。
視界の端で、結城が動いた気がした。
手を伸ばしている。届かない。
何もかもが、遠い。
「……あーあ」
祇園の声が、最後に聞こえた。
「ここまでか」
軽い。あまりにも軽い。
それが、最後だった。
意識が、完全に沈んでいく。
暗い。何も見えない。
それでも——
どこかで、まだ。
「……助けないと……」
その思いだけが、かすかに残っていた。




