105話 俺×対立=もう止まれません。
「——待って!!」
その声は、空気を切り裂くように響いた。
走り出そうとしていた真守の足が、反射的に止まる。止めたくて止めたわけじゃない。ただ、その一声に含まれていた切迫感が、それを許さなかった。
振り返る。
赤坂がそこに立っていた。
さっきまでと同じ場所にいるはずなのに、その一瞬で空気がまるで変わっていた。
顔色が悪い。表情も、声も、いつもの明るさが一切ない。ただ真っ直ぐに真守を見ている。
その目に浮かんでいるのは、焦りと、恐怖と、何かを必死に止めようとする意志だった。
葵も、アリスも、明らかに驚いていた。
それはそうだ。ここまでの赤坂は、ずっと協力的だった。真希那の護衛にも嫌な顔せず加わり、誰よりも冷静に状況を見ていた。その赤坂が、このタイミングで、こんな声を出して真守を止めるなんて、誰も想像していなかった。
「……赤坂先輩?」
真守は、呼びかける声さえ慎重になる。
胸の鼓動が一気に速くなる。頭の中では、白ヶ崎の叫び声がまだ反響していた。
転校生が連れ去られた。
その言葉だけで十分すぎるほどの異常事態なのに、その直後に赤坂がこんな顔で止めてくる。理解が追いつかない。焦りだけが、神経の先にじりじりと火をつけていく。
「……どういうことですか」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど低かった。
赤坂はすぐには答えなかった。呼吸が乱れている。胸元を押さえるようにして、一度だけ深く息を吸う。それから、震える声で言った。
「……これ、罠だよ」
「……は?」
意味がわからなかった。
いや、言葉の意味自体はわかる。罠。その一単語だけなら理解できる。けれど、状況に当てはめた瞬間、すべてがぐちゃぐちゃになる。
「……何言ってるんですか」
「だから」
赤坂はもう一度、言い聞かせるように口を開く。
「これは、真守を動かすための罠」
「……」
頭が一瞬、真っ白になる。
真守は無意識に一歩、赤坂の方へ寄っていた。
「どういう意味ですか」
問い返す声が、少しだけ鋭くなる。
「結城さんは」
赤坂が続ける。
一つ一つ、言葉を選ぶように。
「真守を困らせるために動いてる」
「……」
「真守が放っておけないこと、わかってる。助けを求めるように見せれば、絶対に来るって、わかってる」
「……何を」
真守の喉がひりつく。
「何を言ってるんですか……」
「聞いて」
赤坂の声が少しだけ強くなる。
「今行ったらダメ」
「だから、なんで——」
「結城さんは最初からおかしかったでしょ!」
その言葉が、真正面からぶつかってきた。
「距離感も、話し方も、全部おかしかった。真守の過去を知ってるみたいに振る舞って、記憶を揺さぶって、苦しませて」
「……」
「それでも真守は、あの子が可哀想だって思い始めてる」
「……だから何ですか」
真守の声が、少しずつ冷たくなっていく。
赤坂の言葉は、聞こえている。意味もわかる。実際、結城に違和感があったのは事実だ。最初から不自然だった。今だって、完全に信用しているわけじゃない。
けれど。
だからといって、このタイミングで、それを言うのか。なぜ今、そこを掘るのか。
「真守」
赤坂が一歩近づく。
「今は行っちゃダメ」
「……確証はあるんですか」
思わず口をついて出た。
赤坂が一瞬だけ言葉に詰まる。その沈黙が、余計に真守の神経を逆撫でする。
「……っ、それは」
「ないんですよね」
声が、はっきりと荒れていく。
「今、結城が連れ去られたって聞いてるんですよ」
「だから、それが——」
「それが罠かもしれない、って?」
真守は赤坂の言葉を遮った。
「そんな話を、今?」
自分でもわかるくらい、焦っていた。
焦りが、苛立ちに変わり始めていた。
「……」
赤坂は何も返せない。
返せないまま、それでも真守を止めようとする目だけは逸らさない。
「結城がどういう人かなんて、今は関係ないでしょ」
「関係あるよ!」
赤坂が思わず声を上げる。
その声に、葵もアリスもびくりと肩を揺らした。
「真守が行ったら、取り返しのつかないことになるかもしれないの!」
「なんで言い切れるんですか!」
「……」
「なんで、そんなことがわかるんですか」
真守の声が、さらに低くなる。
赤坂は、苦しそうに息を呑んだ。
その表情を見て、真守の中で何かがざらつく。
隠している。この人は、何かを知っている。
それなのに、今、それを説明しないまま、自分の足を止めようとしている。
「……赤坂先輩」
呼びかける声に、自分でもはっきりと棘が混じっているのがわかった。
「ちゃんと説明してください」
「……」
「俺が納得できるように」
「……言えない」
赤坂の返答は、震えていた。
「今は、言えない」
それが、決定的だった。
真守の中で、何かが切れかける。
「……ふざけないでください」
「ふざけてない!」
「じゃあなんなんですか!」
ついに声がぶつかる。
「人が連れ去られたかもしれないんですよ!?それなのに、罠かもしれないから行くなって、そんな曖昧な話で止めるんですか!?」
「曖昧じゃない!」
赤坂も負けずに言い返す。
「私にはわかるの!だから——」
「だから、なんでわかるんですか!!」
その瞬間、赤坂が真守の袖を強く掴んだ。
「私を信じて、真守」
その言葉は、真っ直ぐだった。
必死だった。
それだけに、余計に真守の中の感情を逆撫でした。
「……っ」
真守はその手を見下ろす。
強く握られている。離さないと言わんばかりに。
「……やめてください」
「ダメ」
「離してください」
「ダメだよ」
「離してくれって言ってるんだよ!」
ついに声が荒れる。
赤坂も引かない。
「行ったらダメなの!」
「見捨てろって言うのか!?」
「今は行くべきじゃないって言ってるの!」
「同じだろうが!」
やり取りが激しくなる。
お互いの声が、夜の空気を震わせる。
葵が「二人とも……!」と声をかけるが、もう届かない。
「真守、お願い……」
「お願いで止まれるなら、とっくに止まってるって」
「信じてって言ってるでしょ!」
「信じられねぇよ!!」
その言葉が出た瞬間、空気が凍った。
赤坂の顔が、はっきりと傷ついたように歪む。
それでも、手は離れない。
真守の中で、焦りが限界に達した。
「……もう我慢できない」
低く、絞り出すように言って、そのまま赤坂の手を振り解く。
ぱし、と乾いた音がした。
赤坂の体がわずかによろめく。
「……」
息が荒い。
言ってはいけないことを言う、その直前の感覚だけがあった。
それでも、止まらなかった。
「……見損ないました」
強い言葉だった。
真守自身、その重さを理解していた。けれど、口にしてしまったあとには、もう戻れない。
赤坂の顔から、色が抜けていく。
「……」
一秒、二秒。
次の瞬間、赤坂がその場に崩れ落ちた。
「……っ」
嗚咽が漏れる。
一気に、堰を切ったみたいに泣き出した。
呼吸も乱れている。胸元を押さえながら、苦しそうに、声にならない声を漏らしている。
「……赤坂さん!」
葵が咄嗟に駆け寄る。
その姿を見ても、真守の足は止まらなかった。
「……そんな泣いても、俺は行きますから」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。
赤坂が顔を上げる。
その目は涙でぐしゃぐしゃなのに、それでもまだ真守を止めようとしていた。
けれど、その声は——もう真守の耳には届いていなかった。
「やめてください」
もうそれ以上は聞きたくなかった。
「楽々浦くん、それは酷いよ!」
葵が振り返って怒鳴る。
その目には、明らかな怒りが宿っていた。
「今の言い方はない!」
「じゃあどう言えばよかったんですか」
真守はすぐに返した。
「行くなって泣いてれば、俺が止まるとでも思ったんですか」
「そういうことじゃないでしょ!」
「俺にはそう聞こえました」
「……っ」
葵が言葉に詰まる。
その間にも、赤坂はしゃくり上げている。胸を押さえながら、苦しそうに、小さく震えている。
「……」
見ていられないはずなのに、今は見ている余裕もなかった。
真守は視線を逸らし、そのままアリスを見る。
「神楽坂先輩」
声が低くなる。
「助けに行きましょう」
アリスは明らかに動揺していた。
泣き崩れる赤坂、怒る葵、そして冷え切った真守。その全部を目の前にして、言葉を失っていた。
「……あ、でも……」
「行きますよ」
はっきりと言い切る。
「今はそれしかない」
「……う、うん」
そのまま、真守と神楽坂は踵を返す。
背後では、葵が赤坂の肩を抱いている気配がした。
赤坂の嗚咽はまだ止まらない。
だが、最後の力を振り絞り声を出す。
「……お願い……まも君……行かないで……」
その声は真守に届くことはなかった。
走る。
校舎の方へ向かって、一気に駆ける。
息が上がる。心臓がうるさい。けれど、それ以上に頭の中がうるさかった。
今のはなんだ。何が起きた。
なんで赤坂先輩は、あそこまで必死に止めた。
答えは出ない。出ないまま、走るしかない。
助ける。まずはそれだけだ。
校舎の中に飛び込み、階段を駆け上がる。
「白ヶ崎さん!!」
窓際にいる白ヶ崎に声をかける。
「……真守くん」
振り返った白ヶ崎の顔も、明らかに焦っていた。
「どこですか」
間髪入れずに聞く。
「結城は、どこに」
「たぶん……体育館」
「たぶん?」
「一瞬しか見えなかったの!」
白ヶ崎の声も震えている。
「黒い集団が……あっちに」
それで十分だった。
真守はそのまま走り出す。
体育館へ向かう廊下が、やけに長く感じる。
頭の中では、さっきのやり取りが何度もフラッシュバックしていた。
赤坂の言葉。
泣き崩れる姿。
けれど——
それを振り払う。
今は考えるな。今は、助ける。それだけだ。
体育館裏に回り、倉庫の前に立つ。
呼吸が乱れる。手が震える。
それでも——
ドアに手をかける。躊躇う時間はない。
一気に引き開ける。
「——結城っ!!」
叫ぶ。
視界に飛び込んできたのは、床に座り込んだ結城の姿だった。
制服はボロボロに裂けている。シャツも破れ、スカートも無惨に引き裂かれている。顔は血だらけで、頬も口元も赤く染まっていた。
「……っ」
息が止まる。
「……結城?」
声が震える。
結城がゆっくりと顔を上げる。
その姿を見た瞬間——
頭の中が、完全に白くなった。
そして、その視線の先。
倉庫の奥に立つ“影”を見た瞬間。
全身が凍りつく。
「……っ、なんで……」
思わず漏れる。
視線の先には——。




