104話 俺×勘違い=守る場所を間違えています。
朝から、胸の奥に残る違和感は消えなかった。
昨日、何も起きなかった夜。その“何もなかった”という事実が、逆に頭の中にこびりついて離れない。
本来なら、安堵していいはずだった。守るべきものは守られて、被害も出ていない。それなのに、息を吐いた瞬間、どこかで何かを間違えているような感覚だけが残る。
「……」
制服のボタンを留めながら、動きが止まる。
来なかった。
ただそれだけなのに、その“来なさ”が不自然すぎる。
予測は外れている。
それ自体はあり得る。人間のやることだ、絶対なんてない。
けれど——これまでの流れを考えれば、今回だけ外れる理由が見当たらない。
だからこそ、怖い。
「まーくん、起きてる?」
ドア越しに真希那の声がした。
いつも通りの、軽い声。
「起きてる」
短く返すと、ドアが開く。
「顔、暗くない?」
「気のせいだろ」
「いや暗いって」
覗き込まれる。
その距離の近さが、妙に現実感を戻してくる。
「……大丈夫だって」
そう言うと、真希那は少しだけ眉をひそめたが、それ以上は追及してこなかった。
「……そっか」
それだけ言って、引く。
「……」
違和感は、消えない。
いつも通り生徒会室の扉を開けた瞬間、空気の重さがはっきりと伝わってきた。
静かすぎる。
誰も無駄な音を立てない。紙をめくる音、ペンが走る音、それだけが妙に大きく聞こえる。
張り詰めている。
会長はいないのに、この空気は異常だった。
「……すみません」
その中で、ぽつりと落ちる声。
結城だった。
机の上には修正だらけの書類が積まれている。赤ペンの跡が、何度も何度も重なっている。
「また?」
黒ヶ峰が淡々と言う。
「ここ、三回目だよね」
タメ口。遠慮のない言葉。
「……すみません」
結城は視線を落としたまま、書き直そうとする。けれど、その手はわずかに震えていた。
「ほんとさ」
黒ヶ峰が続ける。
「なんであんたがここにいるの?」
静かに刺さる言葉。
「……」
結城は何も言わない。ただ、耐えている。
「……黒ヶ峰」
真守が口を開いた。
「……何?」
少しだけ苛立った視線が向く。
「その辺にしとけ」
短く言う。
「いま、仕事を教えるだけだろ」
視線を逸らさず続ける。
「結城を潰してどうすんだよ」
一瞬、空気が止まる。
黒ヶ峰は舌打ちをして、視線を逸らした。
「……別に」
それ以上は何も言わない。
けれど、空気は戻らない。
「……」
結城と一瞬だけ目が合う。
何かを言いかけて、やめたような目。
すぐに逸らされた。
「楽々浦くん」
葵の声が入る。
「確認して」
「あ、はい」
書類を受け取る。
「今は、こっちに集中して」
少しだけ強い声。
「……」
意味はわかる。
——作戦。
今、優先すべきこと。
「……わかりました」
そう答えながらも、胸の奥のざわつきは消えない。
「……」
結城のミスは続く。黒ヶ峰は黙っているが、明らかに苛立っている。
そして——
扉が開いた。
「……何をしているんだい?」
会長だった。
穏やかな声。その一言で、空気が凍る。
「……」
ゆっくりと室内を見渡し、結城の前で止まる。
「……君」
優しい声音。
「期待してたんだけどな」
軽く首を傾げる。
「この程度?」
「……」
結城は何も言わない。ただ、俯く。
「……まあいいや」
あっさりと切り捨てる。
「期待しすぎた僕が悪い」
その言葉が落ちた瞬間、結城の肩がわずかに揺れた。
声は出さない。ただ、静かに耐えている。
会長が一歩だけ近づく。
その瞬間——
「……やめてください」
真守が前に出た。
声は静かだった。
けれど、はっきりとした拒絶の意思が込められていた。
「それ以上は、必要ないです」
会長の視線が真守に向く。
数秒の沈黙。
「……へぇ」
小さく笑う。
「庇うんだね」
「……」
何も返さない。ただ、立ち続ける。
「……まあいい」
あっさりと引いた。
「楽々浦君に言われたら仕方ない」
そのまま、部屋を出ていく。
空気が、ゆっくりと戻る。
結城は何も言わず、副会長のスペースに戻ると、そのまま椅子に沈み込むように座った。
「……はぁ……」
深い、ため息。それだけだった。
「……」
真守は少し間を置いてから、その隣に立つ。
「……大丈夫か」
「……なんとか」
短い返答。
視線は落ちたまま。
「……」
無理をしているのは明らかだった。
「……無理すんな」
それだけ言う。
結城は何も返さなかった。
けれど、その呼吸は、少しずつ落ち着いていった。
「楽々浦くん」
戻るとすぐに葵の声。
「……はい」
「今、何が一番大事かわかってるよね?」
その目は真剣だった。
「……」
「作戦に集中して」
言葉に迷いがない。
「ここでズレたら、全部終わる」
「……」
その言葉が、胸に重くのしかかる。
ズレ。
まさに今、自分が感じているもの。
「……わかってます」
小さく答える。
「そしたら今日は実際に作戦を実行しよう」
覚悟を決めたようにアリスが、その一言だけを残して放課後を待った。
そして、放課後。真希那を学校近くに呼び、配置につく。
葵、アリス、赤坂。
全員が揃っている。
準備は万全。
「……」
なのに。
来ない。
時間だけが過ぎていく。
「……遅い」
葵が呟く。
「……」
胸の奥の違和感が、確信に変わり始める。
「……おかしい」
来るはずだ。来ると読んでいた。
それが来ないということは——
予測が外れたんじゃない。
そもそも、前提が間違っていた。
「……」
その瞬間だった。
「——真守くん!!」
校舎の上から白ヶ崎の声。
「転校生が——!!」
息を切らしながら叫ぶ。
「連れ去られた!!」
時間が止まる。
「……は?」
理解が追いつかない。
「……違う」
真守の中で、全てが繋がる。
「……標的……」
最初から、ズレていた。
守る場所を、間違えていた。
「……行くぞ!!」
走り出そうとする。
その瞬間——
「——待って!!」
赤坂の声が、空気を切り裂いた。
足が止まり、思わず振り返る。
赤坂の表情は、今まで見たことがないほど真剣だった。
ただ止めたんじゃない。
"止めなければいけない理由がある顔”
「……行っちゃダメ」
低く、強く言い切る。
その一言が、場の空気を一変させた。
「……なんでですか」
思わず問い返す。
「……」
赤坂はすぐに答えない。
けれど、その沈黙が——何よりも重かった。




